BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
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03年~ 苦戦の末にタイトルを獲得

大勝した2002年から一転、最終戦までライバルとタイトルを争う苦しい戦いの続くシーズンへ。
最終的にはわずか2ポイント差でシューマッハが勝利するものの、翌年に向け課題の残るシーズンであった。

失速の理由はどこにあるのか、ミシュランはなぜ速くなったのか?

2002年シーズンを圧勝のうちに終えたブリヂストンとフェラーリ。迎えた2003年、フェラーリ陣営の目標は、いつもどおりに「全戦全勝」。確かに前年の圧勝ぶりを思えば、そのように怪気炎を上げるのも当然だ。しかし実際には前年を大きく下回る苦戦の続くシーズンとなった。

理由としては、いくつか考えることができる。
まずは「フェラーリ1トップ体制」の弊害である。前年、圧勝のフェラーリは翌シーズンへの準備が結果的に遅れてしまった。これまで浜島が何度も語ってきたように、「フェラーリの開発の遅れが、そのままブリヂストンの開発の遅れになる」ということが現実のものとなったわけだ。

もうひとつは、ミシュラン勢のパフォーマンスが上がったということ。前年はタイヤとのマッチングが「間に合わせ」であったマクラーレンも、ミシュラン2年目となったことで本来の力を発揮し始めていた。実際、第13戦ハンガリーGPを終えた段階のドライバーズランキング1位は72ポイントでミハエル・シューマッハであったが、2位に71ポイントでウイリアムズのファン・パブロ・モントーヤ、3位に70ポイントでマクラーレンのキミ・ライコネンと、ミシュラン勢が迫っていた。

なぜ、これほどミシュラン勢に迫れらてしまったのか。「敵のタイヤ特性をつかみきれなかったことが最大の原因」と浜島は振り返る。例えばこの年のミシュランのタイヤは、スタート時のトラクション性能に優れていた。なぜ、そうなるのか......それを分析しきれていなかったことが敗因だと浜島は言うのだ。

自分たちのタイヤ開発に専念するのは大切なことだが、目の前のことに追われるあまり、敵を見切れていなかったこと......そこに落とし穴が待っていた。

屈辱のハンガリーGP

接戦の続いた2003年。ブリヂストンが落としたレースには、ある傾向が見られた。第9戦ニュルブルクリンク、第10戦マニ‐クール、第12戦ホッケンハイム、第13戦ハンガロリンクと、6~8月に集中して負けていたのだ。しかもこれらのサーキットは比較的路面のミューが低く、高熱になりやすいという傾向があった。

そして、この年の低迷振りを象徴するレースが、ハンガリーGPだった。1~7位をミシュラン勢に独占され、しかもブリヂストン勢最上位に入ったミハエル・シューマッハでさえ周回遅れにされてしまったのである。
当時のことを、菅沼はよく覚えていた。「悔しくて、眠れなかった。タイヤがマッチしなかったということなんです」と、そのときの気持ちまでも思い出されるような口調で述懐する。

「だから翌年は、(優勝できて)余計にうれしかったですけどね。もう少しで(03年に周回遅れにされた)アロンソを周回遅れにできるところまでいったんだから。でも無線を聞いていたら、シューマッハ自身が"冷静に行こう"と。僕は心の中で、"え~っ! ラップしちゃえ!!"って思ってたんですけどね(笑)」(菅沼)

起死回生の新構造投入

苦しい戦いの続いた夏場を乗り切り、F1はいよいよシーズン終盤へと向かっていく。ヨーロッパラウンド終盤にはフェラーリの地元モンツァが、その後にはアメリカGPを挟み、ブリヂストンの地元鈴鹿でのグランプリが待っている。長く続いている負の連鎖を断ち切る必要があった。

そして復活に向け、ブリヂストンとフェラーリは、大きく動いた。惨敗を喫したハンガリーGP後のテストに、ブリヂストンはなんと500セット分、2000本ものタイヤを持ち込むのだ。このブリヂストンの熱意に、フェラーリも応えた。マシンの前後重量配分を変えてバランスの改良を図るなど、マシンを速くするためのあらゆる努力が重ねられる。

2000本ものタイヤの中には、使えないものもあるかもしれない......それも覚悟の上のテストだったという。しかし、このときのテストでブリヂストンは、ついに復調のきっかけとなるタイヤを見つける。それは圧勝に終わった前年のコンセプトを、さらに言えば全日本F3000から引き継いできた構造設計を見直し、まったく新しいコンセプトのタイヤを作ろうという機運の中から生まれたものだった。

このテストで、新しいコンセプトのタイヤを見つけ出したフェラーリとブリヂストンは、イタリアGPを勝利。続くアメリカ、日本でも連勝を飾り、こうしてミハエル・シューマッハは5連続ドライバーズチャンピオンに輝くのである。

BARホンダがいきなり鈴鹿で......

最終戦日本GPは大きな盛り上がりを見せていた。レース前の時点でランキングトップのミハエル・シューマッハは92ポイント。追いかけるマクラーレンのキミ・ライコネンは83ポイント。圧倒的な有利はシューマッハにあったが、それでも最終戦がタイトル決定戦であることに変わりない。果たしてどんな戦いが見られるのか......。そんな興味の尽きない日本のファンに、もうひとつのボーナスが用意されていた。佐藤琢磨の緊急参戦である。

前年、ジョーダンからF1デビューを果たしていた佐藤は、この年はレギュラーシートを喪失。BARのサードドライバーを務めていたのだが、日本GP直前にチームを離れたジャック・ビルヌーブの代役として出走することが決定。予選13位ながらレースでオーバーテイクを繰り返し、6位入賞を果たしたのだ。

浜島は、そのときのファンの熱狂をよく覚えていた。

「すごい騒ぎでしたよね。僕も非常に気分がよくなっていたのです。......しかし、その一方で冷や水を浴びせかけられるような出来事が、鈴鹿のパドックでは起こっていたんです」

BARホンダが、ミシュランに移籍するというのだ。その事実をミシュランのスタッフから聞かされた浜島は、すぐにBARホンダに確認した。するとそちらからも「そうだ」という答えだった。

「驚きました。ようやくテストがうまくいくようになっていた頃でしたから。かなり悔しい思いをしましたね」

コースの上だけではない、F1の戦い......そんなことを考えさせられるエピソードである。

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