BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
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06年~ ライバルと盟友がF1を去って行く

2001年から続いた最強のライバル、ミシュランとの戦いがいよいよ最終局面を迎える。
前年2005年、ブリヂストンはわずかに1勝しかできなかった。その屈辱を晴らすことに勢力を傾けたシーズンでもあった。
そしてもうひとつのニュース。長年、盟友としてともにモータースポーツの最高峰・F1を戦ってきたミハエル・シューマッハが、
現役を去るときがやってきたのだ。

ミシュランが撤退!戦いの中で得たものは?

FIAが2008年シーズンからのタイヤのワンメイク化を発表。それとほぼときを同じくして発表されたミシュランのF1撤退。しかもミシュランは、2006年シーズンをもってF1から撤退するという。その発表を聞いたときの感想を、浜島は「寂しかった」と述懐する。

「またワンメイクか、と。開発の手をゆるめられないコンペティションというのは、確かに苦しい。しかし、エンジニアとしては楽しいのです。ライバルがいると、純粋にクルマを速くすることに集中できますからね。しかも、そのライバルがミシュランという、我々にとっては最強の相手であり、戦っていて一番おもしろい相手でしたから」

実際、ミシュランと戦った2001年から2006年までの6年間は、あらゆる面でブリヂストンが進化したときだった。技術面はもちろん、ロジスティックを含めた運営面など、すべての面で刺激を受けていた。浜島は、「この6年間の戦いがあったからこそ、ウチの市販タイヤの主力商品でもある"ECOPIA(エコピア)"に使える材料技術も生まれてきたんです」と言う。

基本的なことだが、タイヤというのは、グリップをよくしようと思えば、耐摩耗性が悪くなる。しかしコンペティションを戦うエンジニアとしては、グリップもよければ、摩耗もいいタイヤ、二律背反する性能を両立させたタイヤ、を作りたいわけだ。それが、レーシングタイヤの開発ということになる。
それはエコピアのような転がり抵抗の良いタイヤでも同じ。転がり抵抗をよくすれば、一般的にはウエット性能が落ちる。しかし一般道を走るわけだから、ウエット性能は高いままで転がり抵抗もよくしたい。そのように、相反する要素を高いレベルで両立するための技術開発が、F1を戦う中で飛躍的に鍛えられたのだ。

「レースのフィールドで鍛えられ、開発された基礎技術が、今の弊社の市販タイヤにも生かされています。"ナノプロ・テックTM"をはじめとする環境技術の基盤も、そうです」

ミシュランとのコンペティションは、筆舌に尽くしがたい激戦であった。しかし、その戦いがあったからこそ、技術的に一歩先に進めた。

「本当に厳しいコンペティションというのは、新しい発想を生むし、それに伴う新しい技術も生み出しているのではないでしょうか」

2006年のタイヤこそ、
ブリヂストンの最高傑作!?

「2006年最終戦ブラジルGPのタイヤについては、コンパウンドの番号まで覚えているほど!思うようにいかないレースも多かった2006年、予選で3位を獲得したこのスペックこそが、私たちトヨタにとって最高のタイヤでした」

当時、トヨタF1チームでシャシー部門シニア・ゼネラル・マネージャーを務め、それ以前はミシュランに在籍していたパスカル・バセロンが、それほどまでに感激するタイヤ。それは、ブリヂストンが2004年から取り組んだ新しいコンストラクションの開発の末に完成させたタイヤだった。

2004年の開発スタート時、目指した方向性はコンパウンドの耐熱性をよくすることにあった。その開発は、はじめからうまくいったわけではなく、当初は"温まりにくい"という問題を抱えた、"諸刃の剣"のようなタイヤであった。
当時、このタイヤのテストを行ったフェラーリのルカ・バドエルに「ゴミのようなタイヤ」と酷評されたこともあった。
その問題に対するブレイクスルーが訪れたのが、2006年シーズン。当時、ブリヂストンのF1チームのテクニカルマネージャーを務めていた菅沼は言う。

「劇的に変わったのが2006年のシーズン。トレッド面の剛性を強くするということを押し進めていたのですが、材料的にも、ポリマーとかゴムの材料に新しいものを導入しました。というのも、2006年の構造は非常に低発熱であり、作動性という意味では悪くなる部分があったのです。だからそれをゴムでカバーをしようと考え、違うタイプのポリマーを使ってグリップさせる方向を模索しました」

そのタイヤの挙動が以前のものと違うことは、開幕前のテストから現れていた。「(テストは)冬なので路面温度が低いじゃないですか。だからみんなスピンするのです。ドライバーに聞くと、リアが流れてコントロールできない、と。普通なら(タイヤとして)ボツになるんですが、そうならなかったのは、ドライバーたちが"でも、温まるとトラクションがすごくいい"と言ってくれたから」

そのコメントが出てくることは、室内テストの結果から、ブリヂストンのエンジニアにはわかっていた。だから、「絶対にこのタイヤはいいから、使ってくれ」とチームを説得。テストのやり方にも工夫を凝らした。午前中の路面温度が低い間は内圧を高めにすることでゴムをよく動かし、発熱しやすくして走ってもらう。そして路面温度が上がってきてから通常の内圧に戻し、走行してもらったのだ。

また、クルマのハードウェアの進化も不可欠だったと菅沼は言う。

「走行中のタイヤ温度が見られるようになったのはもちろん、それがどういう温度分布で、内圧がどうなっているかということまでわかってきた。あるとき、フェラーリのエンジニアから言われたことがあります。"だいぶタイヤの温度が下がったね"と。それまでは例えば高速コーナーが2~3続くと、タイヤの温度が130度くらいまでになっていた。すると、その次のコーナーが不安定になり、アクセルオンのタイミングが遅れてしまうんです。しかし新しいタイヤは温度が上昇しないから、アクセルを踏んでいけると、データを見せながら話してくれました。これは、うれしかったですね!」

こうしてブリヂストンも、チームも、そのタイヤ・パフォーマンスに手ごたえを感じながら臨んだ2006年シーズンだったが、序盤は勝てないレースが続いた。問題となったのは、タイヤの使い方。革新的なタイヤであるがゆえ、いわゆる"おいしいところ"をいかに引き出すか......クルマとタイヤをいかに合わせて行くかということの理解が、思うように進まなかったのだ。さらに言えば、「ドライバーも運転の仕方をアジャストする必要があった(菅沼)」という。

フェラーリの地元ともいえる、サンマリノGPでミハエル・シューマッハが勝利すると、ようやく復活! 最終戦までには、冒頭のバセロンのコメントにあるように、最高のタイヤができたにも関わらず、序盤戦の取りこぼしが響き、結局、2006年シーズンのタイトルを獲得することにはならなかった。しかし、それでも2006年に完成させたタイヤが、ブリヂストンにとって傑作タイヤであったことは変わりない。

「2006年のブラジルGPにブリヂストンが持ってきたタイヤ。それは、すべてのチームが夢見るようなタイヤに仕上がっていました」

バセロンが語るこの言葉が、ブリヂストンが成し得たものが何かということを、雄弁に物語っている。

スーパーアグリチームの思い出

2006年シーズン、日本のF1にとって、ひとつのトピックが生まれる。チームオーナーに、かつてF1をドライブした鈴木亜久里、ドライバーに佐藤琢磨と井出有治、エンジンはホンダ、そしてタイヤはブリヂストン。史上初めての純日本チームによるF1への参戦である。

「亜久里さんが来てくれて、やっぱりうれしかったですよね」と、当時を振り返るのは浜島だ。鈴木亜久里とブリヂストンの絆は強く、堅い。例えばブリヂストンがF1に参戦する直前、その開発テストにドライバーとして参加していたのが、鈴木だった。

かつてF1をドライブし、日本人初の表彰台を獲得。ドライバーを引退した後は、自らチームを立ち上げ、フォーミュラ・ニッポンやSuper GT選手権に参戦。すでにチームオーナーとして活躍していた鈴木だったが、さすがにF1に参戦するということは苦労の連続だったようだ。

「日本のチームががんばっているというのは、単純にうれしかったんですよね。......まぁ、確かに苦しそうでしたけど......。だからウチとしもできる限りアドバイスをしました。"ウチのタイヤを使いこなすためには、もっとセットアップを変えないと"とか、"スプリングレートも変えて"とか」

テストも満足にできない状態で、開幕戦バーレーンGPを迎えたスーパーアグリ。「そのときが一番印象深いですね」と浜島は言う。なぜかと言えば、バーレーン入りした時点でチームにはシャシーが1台しかなかったからだ。さすがにこの時は、「本当に出られるのかな」と心配したという。

そんなスーパーアグリを担当したエンジニアは、英国事務所赴任1年目の山下漸だった。山下に当時のことを聞くと、「やはり慌しかったですね」という。

しかし、スーパーアグリは戦いを重ねるうちに、次第にF1の中での存在感を示していく。その最たるものが、山下が最も印象に残るレースでもあると語った、2006年のブラジルGP。ここで佐藤琢磨が19番グリッドからスタートし、10位でフィニッシュを果たすのである。

「小さいチームだから、まとまりはよかった。だからシーズン後半に向けて、よくなっていくんじゃないかと思っていました。僕がチームミーティングに行っても、本当に真剣に話を聞いてくれて......すごくチーム一丸となっていた。少しでもクルマをよくしようという意欲が、常に感じられたチームでしたね」

そう山下が語るスーパーアグリは、翌2007年シーズンのスペインGP、カナダGPで佐藤琢磨が入賞を果たすまでに進化を果たす。しかし参戦3シーズン目となった2008年、資金不足などの理由からスペインGP終了後に、オーナーの鈴木亜久里がF1からの撤退を発表。純日本チームによるF1への挑戦は、道半ばで終えることになってしまうが、チーム撤退後も日本GPにはスーパーアグリのグッズを身につけたファンを多く見ることができる。それだけ、日本生まれのF1チームがファンに与えた印象は強かったということだろう。

盟友ミハエル・シューマッハの引退

それは、チームの地元イタリアGPのレース終了後に発表された。ブリヂストンはその事実を知り、すぐに社を代表して安川・菅沼より次のようなコメントが発表された。

「まずはイタリアGPに優勝したミハエル・シューマッハ選手を祝福したい。しかし、今季終了後、彼が再びレースをする姿を見ることができないことは残念だ。シューマッハ選手は言うまでもなく偉大なドライバーであり、そんな彼とカート時代からF1に至るまで、すべてのキャリアでともに仕事ができたことを光栄に思っている」(安川ひろし)

「イタリアGPのレース終了後は悲喜こもごもだった。シューマッハ選手が優勝したことを喜び、その一方で我々全員が彼の今季限りでの引退を残念に思っている。我々とシューマッハ選手の関係は長く、彼が何年間もブリヂストンタイヤの開発と成功のために重要な役割を果たしてくれたことに感謝している」(菅沼寿夫)

史上最多7度の世界チャンピオンに輝くミハエル・シューマッハ選手が、イタリアGPを優勝した後の記者会見で、現役を引退することを自ら発表したのだ。

ブリヂストンがF1参戦後、初めて組んだトップドライバーは、98年にパートナーとなったミカ・ハッキネンだった。シューマッハとF1で組むのは、最初のワンメイクとなる99年から。この2人のトップドライバーについて、浜島はその違いを次のように語る。

「ハッキネン選手は本当に速いドライバーでした。ただロングランテストのときなど、最初と最後の数周を全力で走り、途中はペースを緩めることがあったんです。ところがシューマッハ選手は違う。すべてのラップを全力で走るし、決して自分からマシンを降りようとしない。自らの手でタイヤを開発し、スペックを決めたいと考えているわけなんです」

そんなシューマッハからは、ときに無理難題を吹っかけられることもあった。特にミシュランと激戦を繰り広げていた頃は、レース前週の金曜日にテストが終わると、その結果を踏まえたタイヤを作ってくれと要求されたのだという。その要求に応えるためには、東京の生産ラインで働いているスタッフに休日出勤してもらわなければならなかった。

「その結果、シューマッハ選手はそのタイヤを使って、きちんと勝つ。だから休日出勤となったスタッフも、文句が言えなくなるし、エンジニアも"彼の意見を聞かないと損だ"と考えるようになるわけです。その想いが、"アイツに頼まれたら仕方ない""彼のためにがんばろう"という機運につながっていったんだと思います」

そんなシューマッハについて、小松秀樹は、浜島と同様、同選手のレースに賭ける執念のような情熱について、こう語ってくれた。

「勝利のためにシューマッハ選手が行う努力は、ほかのドライバーにはないものでした。例えば、タイヤテスト前のコンパウンドの説明に対する理解の早さと、それをベースにした的確なコメントなどには、いつも驚かされていました」

2006年シーズンで一度は幕を閉じたシューマッハとブリヂストンの関係だが、2010年に思いもしていなかった邂逅を果たす。「やはり自分からはマシンを降りようとせず、チームメイトのデータや走りを見つめていた」と浜島が言うように、レースに取り組む姿勢は以前と変わりはない。しかし3年のブランクやタイヤとマシンのマッチングなど多くの要素が重なり、残念ながらブリヂストンがF1にいる間に、再びシューマッハ選手が表彰台の頂点に立つことはなかったが・・・。

「ブリヂストンのF1タイヤを、ゼロから作ってくれたのがシューマッハ選手」

浜島が、そう最大級の賛辞を贈るにふさわしいドライバー。それがミハエル・シューマッハという男なのである。

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