BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
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01年~ 「戦う」という意味を再認識

浜島が「最後の頂上決戦」と位置づけた、ミシュランとのコンペティションがついに始まる。
そこでブリヂストンが痛感するのは......やはり、圧倒的に勝たせてくれるような相手ではない、という事実であった。

やはり、ミシュランは最強のライバルだった

いよいよミシュランを迎え撃つときがやってきた。当然、2000年中にミシュラン勢がテストを行っていることはわかっている。しかし、壁は高く厚く、その具体的な情報はなかなか伝わってこないでいた。いったい、どんなタイヤを仕上げてくるのか......前年までとは違う緊張感を持って、ブリヂストンは開幕戦を迎えることになる。

そして、メルボルンで目の当たりにしたミシュランのパフォーマンスは、想像以上のものであった。

「実際、かなりの高いレベルで仕上げてきていましたよね。タイヤではなく、クルマが壊れたから、ウチが勝たせてもらった......というくらいに。"ちょっとまずいなぁ"と思っていたら、第4戦でやられてしまった」(浜島)

フェラーリの地元ともいえるサンマリノGP。ところが、そのレースで予選4番手につけたミハエル・シューマッハのブレーキにトラブルが発生。チームメイトで予選6番手からのスタートダッシュを狙ったルーベンス・バリチェロもホイールスピンをしすぎて出遅れてしまう。

さらにフロントローにつけていたマクラーレンの2台までもがスタートに失敗。その間隙をついてトップに立ったのが、予選3番手からスタートした、ミシュランを履くウィリアムズのラルフ・シューマッハだった。レースは結局そのままラルフ・シューマッハが独走。兄ミハエル・シューマッハが25周目にアクシデントからリタイアしたこともあり、ラルフ・シューマッハが自身にとってもF1初となる優勝を果たすのだ。

ミシュラン復帰4戦目にして優勝......それを見て浜島は、「う~ん、敵ながらさすがミシュラン!」と感嘆するしかなかったという。

「80年代に初めて対峙して......いつか彼らに勝ちたいと思った。越えなければならない先駆者なんですよ。でも、そう簡単には越えさせてくれない相手なんだということを、シーズン序盤にして痛感しましたね」

思想の違いが現れたタイヤの形状の違い

ミシュランとブリヂストンのフロントタイヤを見たとき、その形状の違いは特に専門的な知識をもっていなくてもわかるほどだった。フロントタイヤを正面から見たとき、ミシュランは角ばったスクエアな、ブリヂストンは角の丸まった形状をしていたのだ。

「タイヤ形状の設計というのは、接地圧の分布とか、タイヤの耐久性というところから決められていきます。その観点からウチのカタチはラウンドショルダーとなったのですが、ミシュランは異なるアプローチを取っていたようですね」(菅沼)

思想や哲学の違う者同士の戦い。それぞれが何を考えているのかを知ろうと、お互いに躍起となっていた。例えば、縁石の越え方。スーパースローの映像で見ると、ミシュランのタイヤはボーンと跳ねたあと、少し揺れている時間がある。それに比べ、ブリヂストンは跳ねたあとの収まりが早い。そんなタイヤの動きの違いに、「どんな中身をしているんだろう(菅沼)」という疑問が起こる。

「たまにトランスポーターが隣り合わせになるときがあるのですが、そんなときはタイヤに貼ってある識別ラベルを横目で見ようとするわけです。それを見ることで、そのレースに何種類のスペック持ってきているかがわかったりしますからね。やはりきちんとは見えませんでしたね。またあるときのバレンシアテスト。ウチが金曜日でテストを終えた後、ミシュランが土曜日にウエットタイヤのテストを行うという話を聞きつけたことがあったんです。なんとか見たいと思ってチームに頼んで中に入れてもらったんですが......日本人というだけで、追い出されちゃった(苦笑)。まさかブリヂストンの人間だとは思ってなかったみたいなんですけどね。ピットロードの上にいてもダメで、最後はコントロールタワーに入れてもらって見たんですが......遠すぎてよくわかりませんでした(笑)」(菅沼)

ブリヂストンとミシュランの戦い。それはコース上だけではなく、「舞台裏」でも行われていたのだった。

戦い方を改めて考え抜いた一年

1999~2000年と、ワンメイク時代を過ごしたブリヂストン。技術競争の相手がいないという事実、そして開発スピードを落としていた影響が出ていた。なんとか開発のスピードを回復しようとするが、やはり一度落としたものを挽回するのは、なかなか難しい。前年の後半からF1に戻ってきた菅沼に、当時のテストの様子を聞いた。

F1はほぼ2週間に一回の割合でレースがある。当時はその合間にテストが行われていた。スケジュールを整理するとこうなる。

木曜日 サーキット入り(ミーティング)
金曜日 グランプリ フリー走行
土曜日 グランプリ 予選
日曜日 グランプリ 決勝
月曜日 移動日
火曜日 テスト
水曜日 テスト
木曜日 テスト
金曜日 テスト
土曜日 テスト
日曜日 休日
月曜日 レポートや資料作成
火曜日 チームにてミーティング
水曜日 チームにてミーティング
木曜日 サーキット入り(ミーティング)

このサイクルが、シーズン中はエンドレスで続くわけだ。

「一番タフなのは、フライアウェイのレース。アメリカとか、オーストラリアとか。長時間飛行機に乗って、ヒースロー空港に着いて、そのままテストのためにバルセロナに行くということがよくありました。空港のラウンジでシャワーだけ浴びて、とか(苦笑)」

しかし、条件はライバルも同じ。限られた時間の中で開発のスピードと質を向上させていかなければならない。浜島は言う。

「ウチの強いところと弱いところは当然わかっている。では、敵は何をどう考えてくるのか......。そればかり考えていました。それはつまり、翌2002年に向け、どんな準備をするかを考えていたということでもあったのです」

「Sorry」と彼らは言った

ワンメイクを経て迎えたブリヂストンにとって2度目のコンペティション。最初のときとの違いは、今回は迎え撃つ立場であり、いわゆるトップチームを陣営に抱えていたことだ。中でもフェラーリとマクラーレンという、誰もが認める名門チームを、である。

ブリヂストンはこの年の第10戦フランスGPで参戦50勝を達成する。この数字についての感想を浜島に尋ねると、「あぁ、50勝もしたのか......そうは思いました。技術的な面でいえば、やはりポールポジションと優勝回数は比例するんです。それはウチの50勝の内訳を見ても表れている。それはつまり、強さの証明なんです」と胸を張る。

さらに言えるのは、フェラーリとマクラーレンという2強がいたことだと言う。「どちらもガンガンやっていましたからね」と浜島がいうように、彼らが貪欲に勝利を求めるだけ、ブリヂストンの勝利数もまた増えていった。

しかし、そこに難しさがあった。

「僕としては、この2チームのテストには同じ数だけ行くようにして、フェアにやっていたと思うのですが......チームの上層部の理解はそうではなかったのかもしれません」(浜島)

レースである以上、勝者は一人だ。そしてこの年、実際に結果を出していたのは、フェラーリであった。

「呆気に取られるとはこのことかと思ったくらいです」

浜島がそういうくらい、マクラーレンのミシュラン転向は突然に宣言された。実際に現場レベルでは、冬のテストをどうやっていくか、プログラムの内容まで煮詰めていたタイミングだったのだという。つまり、オフシーズンテストが解禁となる12月1日直前に起きた、まさに事件だった。

「かなりショックは大きかった。だって、プログラムの話を全部しているわけで、それを持ってライバル陣営に行くわけですからね。......頭の中が真っ白になりましたよ」(浜島)

そんな浜島が、オフシーズンテストの場でマクラーレンのスタッフと再会したとき、彼らのほうから、こう声をかけてきたという。

「Sorry......僕らにはどうすることもできない部分なんだ」

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