17戦15勝。フェラーリのミハエル・シューマッハとルーベンス・バリチェロの2人は、このシーズンを勝ちまくった。
ブリヂストンにとって、それはそのままミシュランに対する勝ち星であり、そこには圧倒的な勝利をつかむべく理由があった。
衰えることなきフェラーリのモチベーション
2002年をひとことで言い表すなら、「フェラーリ圧勝のシーズン」ということになる。17戦で戦われたこのシーズンにおいて、なんと15勝。ミハエル・シューマッハは優勝11回、2位5回、3位1回とすべてのレースで表彰台に上がり、第11戦フランスGPで、早々にドライバーズタイトル獲得を決めた。
勝利の要因にはいくつかの要素が考えられるという浜島。
「もちろん、フェラーリのクルマがよかったことはあります。ウチも前年の反省を踏まえたタイヤ開発を行いました。そして何よりマクラーレンがよくなかったということですね。やはり、ギリギリでミシュランに移った影響はあったと思います。ウチに残っていれば勝てていたであろうレースを獲れず、それをフェラーリがさらっていった。
そして何より、あの当時のフェラーリ陣営のモチベーションの高さですね。シューマッハも、ジャン・トッドも、ロス・ブラウンも。彼らの口癖は"全戦全勝"でしたから」
フェラーリのすごさ。それはシリーズタイトルを獲ることと同時に、レースに勝つことを別に考えていたこと。テーマは、とにかく勝利の飽くなき追求、目標は常に全戦全勝。だからこそ、この年のフェラーリは圧倒的に強かったのである。
一台が突出して速いことの難しさ
「結果をじっくり見てもらうとわかるかもしれませんが、ウチは奇数の年に弱く、偶数の年に強いんですよ」
そう浜島が言うように、確かに好不調の波はここまでも、そしてこのあとも一年おきにやってくる。それは特に、陣営のトップチームがフェラーリだけになってからが顕著だった。それには、ちゃんとした理由があった。
フェラーリが強い年......つまりタイトルを争っている年というのは、シーズンの最後までそのまま開発が続けられる。そのため、どうしても翌年用のクルマの開発が遅れてしまう。するとその遅れは、翌年になって必ず影響が出るわけだ。
逆に調子がよくなければ、シーズン中のアップデートには早々に見切りがつけられ、開発の重点は翌年用マシンに向けられる。だから、一年おきに調子の波が来るわけだ。
とはいえ、例えば陣営に強いチームが複数あれば、この問題もある程度はクリアすることができる。Aというチームが今年、Bというチームが翌年強ければ、ブリヂストンにとっては毎年「強い」ということになるからだ。しかし、この時点ではブリヂストン陣営に強豪と呼べるチームは、フェラーリだけだった。
「フェラーリの開発が遅れると、それは陣営全体の遅れにつながってしまうわけです。はっきりと言ってしまえば、フェラーリ以外のチームのテストでは開発のスピードが上がらない。だからフェラーリが遅れると、ウチのタイヤ開発も遅れる。......つまり倍付けで弱くなってしまう。もちろん、逆も真なりで、フェラーリの開発がガンガン進めば、ウチも開発が進み、それだけ攻めていけたわけです」(浜島)
タイヤテストは年間2万8000キロにも及んだ
フェラーリの開発の進み方が、そのままブリヂストン陣営のタイヤ開発の進み方になった......というのは具体的にどういうことだったのか。
「フェラーリは当時、年間のタイヤテストを2万7~8千キロほど行っていました。日数にして、90~100日にもなり、ほかのチームの約3倍です。彼らからは確かに"フェラーリ寄りのスペックだろ"と言われたこともありますが、現実的に一番テストしてくれていますからね」
そう語る菅沼の言葉からは、当時の勝利にこだわる熱気が伝わってくる。では、フェラーリとのタイヤ開発テストは、どのように進められていたのか。
ブリヂストンからは、レースやテストの結果を分析したのち、投入したいスペックについての説明がフェラーリに対して行われる。そして、そのタイヤのテストをしてほしい、と。するとフェラーリの側も、タイヤのよしあしで1秒とか2秒の差が出ることは理解しているため、タイヤテストについては理解を示していたという。
そしてテストで出たデータが東京・小平市のテクニカルセンターに送られ、レースに向けたタイヤの製造がスタートするわけだ。
金曜日にスペックが決まり、週末に作って、火曜に発送!
レースとレースの合間に行われるタイヤテスト。その目的は当然、次以降のレースに勝つことである。ならば、そのテストの結果を反映したタイヤが速やかに製造できなければならない。タイヤを製造しているのは、東京・小平市のテクニカルセンターである。
例えば、翌週にレースを控えたタイヤテストの場合。たとえテスト期間が金曜日まで予定されていたとしても、製造~配送のことを考えると木曜日のテストが終わった段階で、翌週のレースに投入するスペックを決めなければならない。ところが......「金曜日にそれを覆すようなデータが出たりするんですよ(笑)」(菅沼)ということが起きる。こうなると、大変である。
「一回、工場にこれで作って、と言っておきながら、それを覆すのはやはり大変なんですよ。でもチームは、それを強固に望んでくる。"金曜日のテストで、こっちのタイヤのほうがいいというデータが出ているのだから、それにしてくれ"とね。そこまで言われれば工場に無理を言って、当初のスペックを変更してもらわざるを得ない。勝つためにね。だから、その後はなるべくギリギリまで待って、極力最終的なスペックを東京に伝えるようにしていました。最終的には金曜日のテストデータ......つまり日本時間で言えば、土曜の早朝くらいに届くデータですよね......それを反映して作ったタイヤを、日本時間の火曜日には発送できるような体制を組んでいました」(菅沼)
ヨーロッパと日本。それぞれの場所にいる者にとって、例えば時差は、ときに物理的な距離以上の感覚をもたらすときがある。それを飛び越えるための努力を惜しまなかったからこそ、ブリヂストンの強さは維持されていたのである。