BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
  • ブリヂストンのF1チャレンジはこうしてはじまった
  • ブリヂストンF1スタッフ歴戦の記憶
  • 内外の関係者が語る、F1活動の意義 F1参戦がもたらしたもの
  • 参戦年表
  • テクノロジー&レギュレーション
  • テクニカルデータ&メモ
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1960~ チャレンジのはじまり

ブリヂストンは、創業以来息づくチャレンジングスピリットを発揮し、
第1回日本グランプリからいち早くモータースポーツタイヤ開発に着手。
そのチャレンジが、F1参戦へとつながっていった。

1963年、日本グランプリにはじまった
チャレンジングスピリット

日本のモータースポーツの夜明けは、1963年に鈴鹿サーキットで開催された第1回日本グランプリである。
日本ではレースそのものに対する馴染みがなく、国内自動車メーカーも参戦はしたものの、明確な参戦意義を見いだせていない時代だった。国内から参戦したマシンが公道を走行しているクルマほぼそのままだったのに対し、海外からの招待エントラントは高次元の技術に挑む本格的なレース仕様車ばかりだった。レースに参戦する意識に大き過ぎる隔たりがあったのだ。
挑戦のパッションに満ちたブリヂストンも、当然ながらこのグランプリに参戦している。
日本初のグランプリのために開発したブリヂストン初のレーシングタイヤは、一般乗用車のタイヤとほとんど変わらないものだった。しかし、日本のモータースポーツの夜明けに、確実に一歩を踏み出したのは事実である。この一歩から、F1参戦の夢へと続くチャレンジがはじまったのだ。

1963

日本のモータースポーツの夜明けとなった1963年の第1回日本グランプリ。このレースからブリヂストンのモータースポーツ活動もスタートした。

1967年、
日本グランプリ初制覇

世界に追いつくため、ブリヂストンは当時レースをリードしていたプロトタイプ・スポーツカー、ポルシェ・カレラ6用のレーシングタイヤ開発に着手した。
レースが長距離化したこともあり、グリップと操縦性の向上に加え、耐摩耗性を重視して開発した「RAH」を1967年の第4回日本グランプリに投入。そのタイヤを装着したポルシェ・カレラ6を駆る生沢徹選手が、波乱のレースを制して優勝。ブリヂストンは、海外メーカーのタイヤが国産メーカーを圧倒するという構図を、参戦5年目にしてはじめて打ち破ることに成功したのだ。この結果は、ブリヂストンのモータースポーツ史上で、はじめての金字塔となった。

1967

1967年の第4回日本グランプリで、ブリヂストンタイヤを装着したポルシェ・カレラ6に乗る生沢徹選手が優勝。国内タイヤの技術力が向上したことを示した。

1970~ 未知なるF1との出会い

F1が日本で開催されることになった機会をブリヂストンは見逃さなかった。
星野一義選手とともにF1を走り、手応えを得るとともに
「いつかはF1参戦」への想いを、ますます熱くすることになった。

1971年、F1での動きに呼応し
国内初のスリックタイヤを開発

1969年には、プロトタイプ・スポーツカーによる日本グランプリと、フォーミュラカーによるJAFグランプリが開催された。世界ではレース専用に速さを求めて設計されるフォーミュラカーがトップカテゴリーを独占しはじめ、やがて日本グランプリもフォーミュラカーで開催されるようになった。しかしブリヂストンは、市販車をベースとするツーリングカータイヤの開発を重要と捉え力を注いでいた。そんな折、1971年のF1で、ドライ路面専用タイヤとして、接地面積を最大にするためトレッドパタンをなくしたスリックタイヤが登場した。
常に技術を進化させ続けていたブリヂストンは、その年の10月に早くも国内初のスリックタイヤ「RA-300」を開発。翌年に市販し、国内ツーリングカーレースで圧倒的な速さを誇るようになった。

1971

1970年代前半、日本で最も人気のあったGCシリーズで、ブリヂストンはトップドライバー6人(高原敬武選手、黒沢元治選手、酒井 正選手、風戸 裕選手、高橋晴邦選手、生沢 徹選手)にタイヤを供給し、技術力を磨いた。

1976年、
モータースポーツ推進グループ発足

1976年、日本ではじめてのF1が富士スピードウェイで開催されることとなった。
1964年の東京オリンピック開催、1966年のビートルズ招聘、1970年の日本万国博覧会の開催など、当時の日本には世界的なイベントを積極的に誘致する動きがあり、世界最高峰のレースであるF1開催もそうした動きの一環だったのだ。
ブリヂストンは当初スポンサーという形での参加が決定した。ところが、実際にサーキットを走るマシンには海外メーカーであるグッドイヤーが装着されているため、「実体のないレースのスポンサーになるのはいかがなものか?」という話になった。
当時のF1は、年間シーズンの参戦だけでなく1戦だけのスポット参戦の道も開かれていたため、日本で開催されるF1に参戦することもまったく無理な話ではなかった。といっても、タイヤがなければ参戦しようと思ってもかなわぬ夢である。モータースポーツタイヤの開発スタッフに打診すると、何と自主的にプロトタイプのF1タイヤをつくっていることがわかった。
しかし、会社としては、そのタイヤを公の場に出していいものか判断しかねた。そこで、1976年の7月に急遽モータースポーツ推進グループを発足させ、ブリヂストンのモータースポーツ活動について専門的に検討していくことになったのだ。

1976

日本のサーキットで夢のF1へ初参戦

日本の富士スピードウェイで初開催されることになったF1。開催日は10月24日に決定された。日本の市場に魅力を感じたF1運営組織のトップであるバーニー・エクレストン氏は、事前に5台のF1マシンを日本に持ち込み、富士スピードウェイで試走を行ってから開催を決定した。
できたてほやほやのモータースポーツ推進グループは、「ブリヂストン装着車をF1で走らせるインパクトは大きい」との検討結果から、残された約3ヵ月で夢を実現すべく必死の推進活動を行った。そうした動きのなかで、当時国内のトップドライバーであった星野一義選手の所属するヒーローズレーシングが、ティレルからF1の中古マシンを購入。出場の意向を示してくれたのだ。
そこで、「星野選手のマシンになんとかタイヤを着けたい」と、モータースポーツ推進グループは社内に訴え続けた。そのパッションが経営陣に伝わり、ようやく参加が承認されることになった。

初参戦のF1で3位走行、
雨のブリヂストン神話誕生

日本初のF1は、大雨となった。それまでF1はそんな激しい雨の中で走ることはなかったという。ブリヂストンは、国内のレースではあったが雨に限らずいろいろな条件での経験を積んでいた。その経験に基づくタイヤ性能と星野選手の頑張りにより、雨のなか、日本初のF1で一時3位を走行する快挙を成し遂げたのだ。雨のブリヂストン神話が生まれた瞬間である。
そのあと雨が止んでコースが乾いてきたとき、慣れない状況下での準備不足もあり、次に替えるタイヤはあったのだがホイールがなく無念のリタイアとなった。
結果は残らなかったが、「やればできるのではないだろうか」という実感がブリヂストンの各スタッフの胸に確実に宿ることとなった。モータースポーツ推進グループの安川ひろしは、知人の紹介を得て、このときすでにバーニー・エクレストンに会っている。

日本で初めて開催されたF1グランプリ。雨の中、ブリヂストンタイヤを装着した星野一義選手が一時3位を走った。当時、日本のトップカテゴリーが「日本GP」という名称だったため、「F1世界選手権inジャパン」と呼ばれた。

F1タイヤのコンパウンドでつくった
カートタイヤがもたらしたもの

初のF1タイヤをつくったブリヂストンは、そのコンパウンドを使用してレーシングカートタイヤを開発した。そのタイヤの性能が非常によく、それまで遊園地のゴーカートタイヤが使われていたカートレースを変革したのだ。
フォーミュラカー用レーシングタイヤと同じ断面形状を持ち、高グリップのコンパウンドを持った高性能レーシングカート専用タイヤは、瞬く間に支持され世界でトップシェアを獲得。ブリヂストンにとって新たなビジネスに発展することとなった。
それだけでなく、F1ドライバーをめざす若者とカートを通じて接することは、ブリヂストンタイヤのよさや考え方を体感してもらう貴重な機会となった。かのアイルトン・セナ選手もミハエル・シューマッハ選手もカート選手時代にブリヂストンタイヤを装着しており、ブリヂストンのタイヤづくりに共感したドライバーたちだったのだ。
のちにF1に参戦し、2年目にマクラーレンにタイヤを供給することになったとき、モータースポーツ推進室の安川は、フェラーリドライバーだったミハエル・シューマッハ選手から「なんでブリヂストンは僕たちにタイヤを供給してくれないんだ?」との電話を受け、困惑したという逸話が残っている。ブリヂストンのよさを知っているミハエル・シューマッハ選手には、そのときすでにブリヂストンを装着したいという想いがあったのだろう。

1977年にブリヂストンはカートの重要性に着目し、タイヤ供給を開始。世界各国で行われているレースでブリヂストンのカートタイヤは、絶大な信頼を得ている。写真はF1ドライバーになる前のヤルノ・トゥルーリ選手(1995年)。

1977年、
日本製F1マシンに向けたタイヤ開発

翌1977年。星野選手と高原敬武選手が日本製のF1マシンで、再び日本で開催されるF1に参戦することになった。そのマシンにあわせ、ブリヂストンではF1タイヤ開発に情熱を注いだ。
その当時、F1参戦活動の中心となっていたモータースポーツ推進グループの安川は、学生時代からレース好きだったこともあり、何よりもタイヤメーカーとして「レースに参加すること」に情熱を注いで活動を進めていた。「やってみたい、タイヤを提供する者としてなんとかF1に参加したい」と。
1977年のF1は、星野選手が予選11位を獲得し、タイヤとしても十分な手応えを得ることができた。しかし、残念ながらその年富士で開催されたF1で、レース中に非常に大きなアクシデントが起こってしまったのだ。当時、バイクやクルマで暴走する『カミナリ族』が社会問題化し、スピードに対する懸念が世の中で表面化していたこともあり、この年でF1に対する日本での門が閉ざされてしまった。

1977

1977年に開催されたF1で、「がんばれ星野・高原」を合い言葉に、ブリヂストンは両選手をサポートした。写真は高原選手のコジマ009。

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