BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
  • ブリヂストンのF1チャレンジはこうしてはじまった
  • ブリヂストンF1スタッフ歴戦の記憶
  • 内外の関係者が語る、F1活動の意義 F1参戦がもたらしたもの
  • 参戦年表
  • テクノロジー&レギュレーション
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1997年 F1に込めた熱き想いをかたちに

F1参戦を果たした初年度のレースは、ブリヂストンタイヤを装着した小さなチームが
名門チームに挑み、ときに表彰台を獲得するという見応えあるものになった。
ブリヂストンのあらゆる人々の想いが快挙へとつながったような、
熱い一年でF1参戦の第1章は幕を開けた。

多くの方々の支援があって、
ようやく開幕戦のグリッドへ

F1タイヤの供給には、トランスポーターやモーターホームも必要となるが、それらをつくる技術やアイデアはサービスを担当するピーター氏が持っていたため、安心して任せることができた。
また当時は、インターネット通信がはじまり、F1も高度にコンピュータ化されていた。80年代にヨーロッパF2に参戦した頃は、日本へ電話をかけるのに半日を費やしテレックスを打つ時代だった。やがてFAX、電子メールへと進化し、デジタル技術で高度な効率化を実現するにはコンピュータのことがきちんと分かるスタッフも確保する必要があった。準備着手から開幕まで、わずか半年という時間的なプレッシャーのなか、さまざまな人物の協力があり、何とか1997年の第1戦、オーストラリアGPのグリッドに並ぶF1マシンへ、ブリヂストンタイヤを届けることができたのだ。

トランスポーター、モーターホームといった設備だけでなく、東京・小平市の工場からいつどうやってタイヤを運び、現地で組み付けチームに装着するかといったシステムをゼロから構築していったのだ。

タイヤ供給の事実だけでは
ビジネスツールにならない

「小さいとはいえF1チームにタイヤを供給するということは、ブリヂストンの名が多くメディアに登場することを関係者は期待するだろう」。安川はそう考えた。しかし、現実には小さなチームがテレビに映る機会は少なく、ブリヂストンの名が、一般の人が広く目にするメディアへ頻繁に登場することは難しい。タイヤを供給するだけでは、F1であっても、モータースポーツに関心の低い一般の人に訴求するビジネスツールになりにくかったのだ。
創業者の石橋正二郎がかつて「2キロに1店 ブリヂストンのサービスショップ」という施策を推進しTVCMまで行っていたのは、ブリヂストンのロゴを多くの人に目にしてもらうためである。
安川は、「F1が開催されるすべてのサーキットにブリヂストンの看板をつけたい」と、海崎に話した。はじめは「そんな資金はないだろう」と驚かれたという。しかし安川も引かない。「F1参戦にはトータルで多くの費用がかかるのだから、看板設置をやらなかったら意味がない」と訴えた。その訴えの正当性を理解した海崎は、「そうか」とうなずく。
それで、安川は、80年代のF2参戦時から協力を仰いでいる国際法に詳しい弁護士であるジュリアン・ルー氏と、モータースポーツ推進室のメンバーで英語が堪能な三葛秀幸とともに、サーキットに看板をつける交渉に動き出した。

世界最高峰のF1と言えども、タイヤサプライヤーとして参戦し、ブリヂストンのロゴがタイヤやマシンなどに入っただけでは、多くの方にブリヂストンの名を知ってもらうことはできない。そのためには...

F1で交渉を成功させるには、
そこに至るまでの人付き合いが大切

看板を付ける交渉のために、誰にどのようにアプローチするかは、学生時代から自動車レースをやっていた安川の個人的な知り合いのネットワークが大いに役立った。いろいろな人物の紹介により話をする機会を得、看板を掲出する権利を獲得することができたのだ。
しかし、契約はひと筋縄ではいかなかった。何とか会社のために最少コストで契約を取ろうというブリヂストンに対し、相手はなかなか首を縦に振らなかった。ときには、ものすごい勢いで相手が机を叩き、「そんな条件じゃ受けられない」と言われたこともあったという。安川は、弁護士のルー氏と通訳として入った三葛と3人で交渉に当たり、慎重に妥協点を見いだし、何とか乗り切った。関係したジャッキー・スチュワート氏との間にもいろいろな交渉があって、1泊4日で日本とデトロイトを往復するといった強行軍も経験したという。
しかし、交渉を乗り切るためとは言え、あまり突拍子もないことを言うとすべてが破談になってしまう危険もある。
だから、関連する人物と日頃のコミュニケーションをしっかりと行い状況をつかんでおくことが重要なのだ。F1の世界は、関係する人物同士の信頼が重視されており、信頼関係の日頃のメンテナンスは非常に大切である。そして、そうした信頼関係の密なフォローは現地にいないと成し遂げられないことなのだ。
安川は、1981年にF2へ参戦するとき、ホンダの川本氏から、「もし本当にレースビジネスをやるんだったら、日本から通いじゃだめだ。住んでやれ」と言われたことがずっと心に残っており、本拠地欧州で信頼関係の醸成に常に心を砕いていたのだった。

F1を貴重なビジネスツールと捉え、世界で約180カ国に放映されるテレビ中継をターゲットに、ブリヂストンの看板を常に画面に映し出す取り組みが参戦当初から行われていた。

いかに長くブリヂストンの看板を
テレビに映すか

「数じゃないんですよ。テレビに映る看板が1つあればいい。長くテレビに映るには、数よりも位置が大事なんです」
F1が開催されるすべてのサーキットに足を運び、どこにテレビカメラが設置されてどう映すかを隈なく調べ上げ、効果的なポイントに看板を設置する交渉を行ったのがブリヂストンのF1前線基地に駐在する堀尾だった。 F1の世界は、古くから従事し長い履歴を持つ人を大切にする。看板を付ける仕事を請け負う人物も古くから決まっており、効果的なアドバイスを得るには、そうした人々と親しくなることこそ重要なのだ。堀尾は、多忙な時間の間を縫うようにして親身なスタンスでさまざまな人物と交流を重ね、事をスムーズに運ぶ努力を惜しまなかった。
やがては、調査会社を通じてブリヂストンの看板の露出度を常に調査するようになり、数値が下がるたびに看板を請負う人物に話をして次のレースで数値を上げるために看板の配置を見直すよう働きかけた。そして、F1放送でカメラが切り替わるたびに、「BRIDGESTONE」の文字がしっかりと映し出される看板を設置することに成功した。その成果は絶大なものとなった。

知名度がゼロに近かった国々へ
ブリヂストンの文字を届ける

F1中継は、世界180以上もの国で放映され、実に多くの人々が目にする。そういう意味でF1はきわめて価値の高いコンテンツなのである。
F1中継が放映される国々のなかで、アメリカや日本は広報体制が整っているため自主的に広告宣伝ができる。ところが、中国やロシア、インド、アフリカなどは販売会社の規模も小さく宣伝そのものが行いにくいし、もし各国でアメリカや日本と同様に宣伝を行うとなるとブリヂストン全社として膨大な費用がかかってしまう。
しかし、F1の放映で常にブリヂストンの看板が映されれば、たとえ広告を行わなくても長い時間F1マシンとともにブリヂストンの文字が画面に出続ける。自動車レースの世界最高峰であるF1でブリヂストンの文字が映し出されることは、費用をかけなくても宣伝を行う以上のインパクトがある。ブリヂストンの知名度がほぼゼロに近かった世界の多くの国で、知名度が急激に上がったのは、F1参戦がもたらした大きな効果といえよう。モータースポーツ推進室にはもちろん、各国のブリヂストンの販売会社には、関係者からたくさんの感謝の声が寄せられた。
これは日本にいると理解しにくいことかも知れない。日本では、街のさまざまなところにブリヂストンの看板があり、ショップがあり、テレビCMも行われているし、野球を見ればテレビ画面にブリヂストンの名が出てくる。しかし、世界の多くの国では、ブリヂストンの看板をほとんど目にすることがなかった時代なのだ。そういう意味で、F1によるブランディング活動はインパクトがあったのだ。

広告ではなく、世界最高峰のレースを支える存在としてブリヂストンの名を発信することは、きわめて価値が高いPR活動となった。

プロモーション活動も重視

モータースポーツ推進室では、サーキットにブリヂストンのお客様を招待することにも配慮を怠らなかった。日本などでは、サーキットへの招待を行うことができるかも知れないが、まだ規模が小さい海外の販売会社では自社での招待が困難であり、世界の販売会社間でプロモーション活動に格差が生じ、アンフェアになってしまうと考えたからだ。
そこで、パドッククラブに入ることのできる年間パスを契約。サーキットごとにスペースに合わせて最大何人までという取り決めで、すべてのサーキットでお客様を招待できる権利を得た。
さらに、会場内にプロモーション用のイベントブースを設置できる契約、プログラムに1ページ広告を出稿できる契約も取り付け、F1をビジネスツールとしてより価値のあるものにしていった。

パドッククラブでの催しの様子。ただタイヤを供給するだけでなく、パドッククラブの席の確保や広告出稿の権利を獲得するといったきめ細かな配慮により、F1参戦が世界各国でより有益な活動となった。

長年の夢の結実、
1997年F1開幕

まさに夢の結実だった。F1が開催されるオーストラリア、メルボルンサーキットの随所にブリヂストンの文字が見える。そして、ブリヂストンとPOTENZAのロゴを記すタイヤを装着したF1マシンが走っている。ついに、ブリヂストンはF1参戦を果たしたのだ。みな、満面の笑顔で開幕戦を迎えた。いよいよ、新たな世界への歴史がはじまるのである。
まだブリヂストンのモーターホームはない。ポーターキャビンの仮事務所のようなところを借り受けてのスタートである。モーターホームは、第4戦の欧州ラウンドから投入予定だ。しかし、そんなことは関係ない。F1に参戦できたよろこびにブリヂストンのスタッフは浸っていた。

そして、記念すべき開幕戦のリザルトは、プロストGPのオリビエ・パニス選手が、予選9位からスタートし、決勝で5位に入りポイントを獲得する快挙とも言うべきものだった。しかもパニス選手は、トップのマクラーレンからわずか1秒遅れのフィニッシュだ。
第2戦ブラジルGPは、パニス選手が3位表彰台獲得。第5戦モナコGPでは、スチュワートのルーベンス・バリチェロ選手が2位表彰台を獲得し、続くスペインGPでパニス選手も2位に。圧巻は、第11戦ハンガリーGP、最終ラップまでアロウズのデイモン・ヒル選手がトップを走り、マシントラブルで惜しくも2位になったレースだ。
このとき、モーターホームにいた堀尾は、フィニッシュ前に「1st」と書かれたキャップを手にして、チェッカー後に車両保管場所となるパルクフェルメへ走ったという。しかし、到着してみると、マシンの傍らで両手を挙げているのはグッドイヤーを装着するウイリアムズのジャック・ビルヌーブ選手だった。
最終ラップでマシンにトラブルを抱えたヒル選手は、トップチェッカー寸前で抜かれてしまったのだ。堀尾は、信じられない気持ちで「1st」のキャップを引っ込め、通常のポディウムキャップをヒル選手に渡した。しかし、ヒル選手は満面の笑顔だった。このレースで一番速かったのは自分だったという自信が彼の笑顔に満ちていた。
この一連の活躍は、タイヤによるところが大きいことは誰の目にもあきらかだった。参戦初年度でブリヂストンの技術力が認められ、1998年のマクラーレンへのタイヤ装着、ミカ・ハッキネン選手によるワールドチャンピオンとコンストラクターズタイトル獲得につながったのはご承知の通りである。
原田は、F1参戦に至ったモータースポーツ活動をあらためて次のように振り返った。
「レースをやれば、必ず勝ち負けが決まります。我々はバイアスタイヤからラジアルタイヤへの移行期でかなり苦しい思いをしましたが、そのときの経験がブリヂストンを強くしたと思います。それがレースの素晴らしいところです」と。

参戦初年度、第2戦目にして3位表彰台を獲得。その後もブリヂストン装着車は快進撃を続け、F1においてタイヤの重要性を鮮やかに示すことができた。

F1参戦は、ブリヂストン全社員の努力に支えられて実現できた企業活動である。写真は、参戦2年目の1998年、最終戦日本グランプリでマクラーレンのミカ・ハッキネン選手がチャンピオンを決めたあとの一枚。スタッフの胸は、勝利の喜びとともに、世界のブリヂストンのスタッフとしての誇りで満たされていた。

F1参戦の夢は、
ブリヂストン全社員の努力で成し遂げられた

その後ブリヂストンは、1999年にフェラーリの16年ぶりのコンストラクターズチャンピオン獲得と、2000年にはミハエル・シューマッハ選手によるフェラーリ21年ぶりのドライバーズタイトル獲得を支えた。 14年間の参戦期間の中で、フェラーリによる8回のコンストラクターズタイトル獲得及び6回のドライバーズタイトル獲得をサポートしてきたことになる。 そして、2008年にはマクラーレンのルイス・ハミルトン選手のドライバーズタイトル、2009年にはブラウンGPとジェンソン・バトン選手のダブルタイトル獲得を支えた。 そして2010年、唯一フル参戦を果たした日本人ドライバーである小林可夢偉選手(ザウバー)のアグレッシブなバトルや、セバスチャン・ベッテル選手(レッドブル)の史上最年少のF1世界チャンピオンの誕生、レッドブルのコンストラクターズタイトルとダブルタイトル獲得を足元から支え、14年を締めくくった。
ブリヂストンのF1参戦は企業活動であり、全スタッフの夢でもあった。 この参戦活動により、ブリヂストンの名が世界中の多くの人々の胸に刻まれたことは想像に堅くない。
ブリヂストンに多くのものをもたらしたF1参戦は、ここに記した通り、多くの関係スタッフのパッションと人と人とのつながり、ブリヂストンという企業の成長と優れた技術力なくしては実現できなかったと断言できる。 そういう意味で、ブリヂストンの全社員がもたらした成果であるといえよう。
F1参戦という夢が成就した背景には、ブリヂストン全社員のたゆまない努力があったことを、あらためて記しておきたい。 ブリヂストンのF1参戦は、こうしてはじまったのだ。

1998年、最終戦日本GPでマクラーレンとミカ・ハッキネン選手が、コンストラクターズチャンピオンとドライバーズチャンピオンを獲得したことを祝し、新聞広告を掲載した。タイトルは「ありがとう」。"ここから旅立っていったブリヂストンのタイヤが、マクラーレンの'98 F1チャンピオンという栄光をのせて帰ってきました。"という見出しで、"いまは、ありがとう、のひと言しかありません。"というブリヂストン・テクニカルセンターのスタッフの気持ちを、彼らの笑顔いっぱいの写真とともにファンのみなさまへ届けるための広告だった。

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