れた。そして海外から当時最強のプロトタイプ・スポーツカーと知られていたポルシェを国内に持ち込んだ滝レーシングと契約を結んで一気に開発の速度がアップした。そのプロジェクトがスタートした1966年の翌年、第4回日本グランプリで早くも努力が結果として実を結び、ブリヂストンは日本グランプリで初優勝を成し遂げるのであった。第1回グランプリから4年後のことだった。
1970年代に入ってすぐに海外でトレッドパタンを持たないスリックタイヤがフォーミュラカーレースの最高峰、F1でドライ用のタイヤとして使われ始めた。これまでのタイヤコンセプトを大きく変化させたこのスリックタイヤにも迅速に対応したブリヂストンは、1971年の10月に国産初のスリックタイヤを開発。現在では、ごくあたりまえとなっているドライコンディションのスリックタイヤ、ウェットコンディションのパタンドタイヤというコンセプトは国内では25年前に確立された。
1960年代に比べ、ブリヂストンのモータースポーツ用タイヤの開発技術は、海外のそれにほとんど足並みを揃えるまでに進んでいた。
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モータースポーツが作り上げた
「POTENZA」ブランドイメージ
日本の高度経済成長と歩調を合わせるようにして国内モータースポーツも1970年代に入って一気に活気を帯びていた。国内タイヤメーカーとしてナンバー・ワンのポジションを確固たるものとしていたブリヂストンは、サーキットで行われているモータースポーツのみならず、ラリー、ジムカーナ、現在のラリーレイドに至るまでそのすべてのカテゴリーにモータースポーツ用タイヤを供給、競合タイヤメーカーとの切磋琢磨の中でモータースポーツ界でもトップブランドとしての地位を確立していった。
バイアス構造からラジアル構造への技術革新と時期を同じくして、1980年代に入って高性能乗用車用タイヤ市場でのイメージアップにモータースポーツが大いに貢献した。
若者層に支持されていたハイパフォーマンスタイヤの市場へブリヂストンはヤング&マニア戦略を仕掛け、世界に通じる若々しいブリヂストンをアピールするべく、高性能乗用車用タイヤと同じ「POTENZA」のブランド名をつけたモータースポーツ用ラジアルタイヤで国内外のレースに参戦した。
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