1981年のシーズン途中からヨーロッパF2へ参戦、デビュー戦予選でフロントロウを独占、2戦目で初優勝。そして、ブリヂストンユーザーのジェフ・リース選手がチャンピオンを獲得するという、鮮烈なデビューを飾った。ヨーロッパでの初めての本格的レース活動は、日本とは勝手の異なることも多く、困難もあったが、コンビを組んだホンダやラルトのロン・トーナラック氏らの適切なアドバイスもあって克服。ここで周囲の環境を学んだことは、将来のDTMやF1といったヨーロッパでのレースビジネスの基盤を作る意味でも有意義であった。そして、当面の狙いであった国内での「POTENZA」のイメージアップにも大きく寄与したのである。
一方、国内においてもF2、そして人気イベントであった富士グランチャンピオンシリーズ(GC)に積極的にタイヤ供給を行い「POTENZA」のイメージアップを図った。
このヨーロッパと国内の活動によって当初国内における高性能乗用車用タイヤ市場でやや劣勢だった「POTENZA」が一気にトップブランドのポジションを確立していった。
そして、世界のトップブランドへの挑戦
1990年代に入り、企業としてのグローバル化に伴い、その世界戦略の第一歩としてモータースポーツによってブランドの認知を高める活動をヨーロッパでスタートした。ドイツツーリングカー選手権(DTM)においてAMGメルセデ
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ス・ベンツチームのサポートを開始したのだ。
世界最強のツーリングカーシリーズとして知られていたこの選手権は、当初、ドイツ国内だけで行われていながらヨーロッパを中心として多くの注目を集めていた。AMG側からの要請で1991年からサポートを開始。タイヤ開発は、必ずしも最初から順調とはいえなかったが、短時間でトップコンテンダーとしてのポジションを確実にした。AMGメルセデス・ベンツチームを支えるブリヂストンとして、着実に認知度はアップしていった。
ヨーロッパとタイヤマーケットの両極にあるアメリカでは北米大陸を中心に行われていたインディカーシリーズへの参戦を1993年から準備、1995年からシリーズ参戦を果たした。これは1988年に吸収合併した伝統あるファイアストン社製タイヤの優秀性を再び市場にアピールするための活動であった。日本とアメリカの技術陣のジョイントプログラムでタイヤを開発。ファイアストンの経験の上にブリヂストンが培った技術ノウハウを加えたタイヤで初年度から2勝を得る結果を残し、シーズンを追うごとにユーザーが拡大していった。途中、インディカーレースがCARTとIRLの二つのシリーズに分かれて行われるようになったが、ファイアストンは双方にタイヤを供給。常勝タイヤとしての地位を築いた。
そして、次なるチャレンジのフィールドは世界。ブリヂストンは満を持してモータースポーツの最高峰、F1世界選手権への参戦を1997年に
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