にある水の量によって浅溝、深溝をチームの判断によって使用してもらった。
当初チーム側では、ワンメイクタイヤに多少の戸惑いを見せたが、チームに対する地道なコンサルティングによって混乱を招くことなくワンメイクタイヤは浸透していった。また、時が経つにつれてイコールコンディションの中でのコンペティションを歓迎するコメントをチームから得たのは供給タイヤメーカーとしては嬉しい限りだった。
1997年は、全日本F3からステップアップしたスペイン人ドライバー、ペドロ・デ・ラ・ロサ選手が全10戦中6勝するという素晴らしい成績でチャンピオンとなっている。
フォーミュラ・ニッポン3年目となった1998年もワンメイクタイヤ供給は継続された。1997年はドライ路面用タイヤを3スペック用意していたが、1998年からはレース、テストでの便宜性を考慮し、年間を通し1スペックのタイヤを供
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給することとした。
1997年のワンメイクタイヤ導入、そして1998年の1スペック化に対しても参加チームはさすがにトップカテゴリーを闘うチームだけあって、変化した状況に迅速に対応してくれた。実際にオールシーズンをコンセプトにしたタイヤであるため、グリップレベルでそれ以前よりも多少劣ることは否めなかったが、決勝のラップタイムを見ると以前に近いタイムで走行するまでに至ったのは、各チームの弛まないベストを追求しようとする努力によるものが大きい。
1998年シーズンは、開幕戦の鈴鹿サーキットで影山正彦選手、影山正美選手が史上初めて兄弟で1-2フィニッシュを飾るなど話題の多いシーズンのスタートを切った。脇阪寿一選手、道上龍選手などの若手の台頭で新たなる流れを感じさせる展開の中、3勝をマークしコンスタントにポイントを獲得していった本山哲選手がフォーミュラ・ニッポン3年目にして初の日本人チャンピオンに輝いたのだった。
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