「公団ちゃん」の愛称でおなじみの11号車・SAKAE MOTOR SPORTS FITでステアリングを握る、面野 一(おもの・はじめ)選手。三菱ディーラーへの就職を機にコルトモータースポーツクラブ(CMSC)からジムカーナに挑戦したことが、モータースポーツ活動の原点だと語る。地元・北海道広尾町で家業の自動車販売修理工場を継ぐために帰郷し、一旦は活動を停止したが、数年のブランクを経て十勝の耐久レースに出場。ここからサーキットの道が再び動き出した。その後、レースから距離を置く時期もあったが、S耐のスポット参戦を機に本格的な活動を再開。スポットという「呼ばれる立場」から、北海道を代表するモータースポーツチームを「まとめる側」へと変わった面野選手に、その経緯とS耐への思いを聞いた。
【編集部注】
本記事はS耐2025開幕戦および富士24時間レースにて収録したインタビューです。
掲載にあたり、亡くなられた面野選手のご冥福をお祈りいたします。本稿はご遺族の同意のもと掲載しております。
「S耐参戦のきっかけは、シンリョウレーシングさんに声をかけていただき、スポットで富士24時間レースに出場させていただいたことでした。コロナ禍にはいったんS耐を離れ、全国のサーキットの経験を積む意味もあってMINI CHALLENGEなどに出場しました。そしてコロナ終盤に「北海道でS耐のチームを作ったから手伝ってほしい」と声をかけられてスポット参戦しました。北海道からの参戦は本州のチームに比べれば確かにハードルが高いですが、立ち上げ時のオーナーが抱いていた「北海道から爪痕を残したい」という思いを受け継いで、翌年からそのチームを引き継ぎました。新チーム初年度は富士戦にスポット参戦、2年目はフル参戦、3年目にはSAKAE MOTOR SPORTSへチームを引き継いで、現在に至ります。1~2年目はドライバーを務めながら裏方の段取りを担いました。大変でしたがやりがいがありましたね。今は裏方にはほぼノータッチでドライバーに専念でき、新加入やスポットのドライバーへの橋渡し役に徹してペースづくりに集中しています。ドライバーも北海道出身者が多く、思いを共有しやすいのが私たちの強みです。
スプリントは個人で完結しますが、耐久は次のドライバーにつなげてゴールまでマシンを運ぶ競技です。個性の異なる複数のドライバーをひとつにまとめて、チーム力を引き上げていく過程が、私にとってたまらなく魅力的ですね。レースを離れていた約10年のあいだに、地域の青年会や、いろいろな団体の青年部等でリーダーを任され、コミュニケーションやマネジメントを学んだ経験によって、尖っていた自分が一歩引けるようになり、他のドライバーを立てつつチームとしての尖りをうまくコントロールする──その積み重ねが耐久で生きています。また、今年からST-5クラスがFFとFRに分かれて、タイムが拮抗したFFのライバルたちとレースに集中できるようになりより楽しくなりました。
本州に出てきた初年度は、まさに井の中の蛙だと思い知らされました。十勝で走れても本州では通用せず、打ちのめされて「もっと本腰を入れて真剣にやらないといけない」と腹をくくりました。十勝とはコースの性格もまるで違います。フラットで先が見えやすい十勝に対して、富士の1コーナーは下りで先が見えません。鈴鹿のS字は長いリズムが続き、菅生の最終コーナーは想像以上に登っています。最初は北海道外を走りたい気持ちはそれほど強くありませんでしたが、一度走れば「もう一度来たい、攻略したい」という思いが強くなりました。どうすればもっと前へ進めるか──その答えを探して、今も走り続けています。
タイヤについて言えば私がモータースポーツを始めたのはジムカーナで、そのときもブリヂストンのタイヤで走っていました。ブリヂストンで終えられたら幸せだ──今は、そんな気持ちでハンドルを握っています。」
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ブリヂストンは、スーパー耐久を支える“ひと”の力とともに、
その想いがゴールまで届くよう、足元から走りを支えていきます。






















