BRIDGESTONE F1活動14年の軌跡
  • ブリヂストンのF1チャレンジはこうしてはじまった
  • ブリヂストンF1スタッフ歴戦の記憶
  • 内外の関係者が語る、F1活動の意義 F1参戦がもたらしたもの
  • 参戦年表
  • テクノロジー&レギュレーション
  

F1は、逆境から物ごとを学び取り
未来に活かすことを技術陣に教えてくれた

当時:フェラーリ担当エンジニア

キース・ファン・デ・グリント

14年に渡るF1活動の中には、ブリヂストンにとっての100戦目をフェラーリの1-2フィニッシュで飾った2002年のような「黄金期」も、アメリカGPでの1勝しか手にできなかった2005年の厳しい時期もあった。
ブリヂストンの技術陣は、その中から何を学び取ったのだろうか。
1970年代後半からブリヂストンのモータースポーツ活動に携わり、フェラーリの担当エンジニアを務めた、キース・ファン・デ・グリントに、語ってもらった。




私がブリヂストンと一緒に仕事をした1977年当時、ヨーロッパにはわずか2人の営業担当者がいるだけで、モータースポーツ活動ではレーシングカートを始めただけの時代でした。ブリヂストンは実際、ヨーロッパではほとんど誰も知らないようなメーカーに過ぎませんでしたから......。
その後、私はF3の仕事を経て、ヨーロッパF3選手権での優勝とモナコF3GPでの4回の優勝を経験し、様々なプロジェクトに関わりました。
モータースポーツ活動の成功と歩調を合わせるようにマーケットシェアも拡大。このことは、レースに勝つのと同じように嬉しいことでした。
その後、DTMとITCにおいて4回選手権で優勝したのち、ル・マンに出場して3位を獲得。最後はF1です。ミハエル・シューマッハ選手とスクーデリア・フェラーリ・チームとともに4回のチャンピオンを獲得しました。


2005年までのシーズンは素晴らしい成功を収めることができました。ライバルメーカーと激しく競り合いながら、正々堂々と勝ち続けていたのですから。その期間はブリヂストンにとって、「ここ一番で性能を発揮するタイヤ」ではなく「常に安定したタイヤ」を供給するという方針に、揺るがぬ自信を持ち続けることが大事でした。なぜなら、ライバルメーカーは一周当たりのスピードで勝るものの、その後のグリップダウンが激しかったからです。勝つためには自分たちの選んだ方法が正しいと信じることが必要だということを学びました。


我々がいちばん多くのものを得たのはアメリカGPでの1勝しかできなかった2005年シーズンでしょう。ものごとがうまくいかないときは学びの時期でもあります。何も祝うことのない状況の中でスタッフのモチベーションをどう保ち、どう高めていくか。パートナーチームとどうやって強い絆を保ち続けるか。そして何より、なぜ競争力が劣っているのかを考え、学ぶべき時期だったと思います。
成績という点では最悪の一年でしたが、そんな中でもひとつの希望となったのは、決勝中のタイヤ交換が原則として禁止というレギュレーションで、安全を第一に考えてタイヤをつくるという我々のポリシーが正しかったことが、図らずも証明されたということ。そのポリシーを貫いていなければその一勝も挙げることはできなかったはずですから。
翌2006年、ブリヂストンは再び競争力を取り戻し、最終戦のブラジルGPまでチャンピオン争いをしました。それは不思議なことでもなんでもなく、失敗から学び、譲れないポリシーをさらに貫き続けたからこそできたことだと考えています。
ブリヂストンがF1に参戦することで得られるものは多くありましたが、自分たちの選んだ方法を信じて、それを愚直に実行し続けることの大切さを、技術陣に学ばせてくれたような気がしています。

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2005年のアメリカGPでは、ブリヂストンのタイヤを装着する3チーム6台以外のチームが、タイヤの安全性を理由にレースを棄権。ブリヂストンの開発思想の正しさが図らずも証明された結果となった。

成績という面では、ブリヂストンの参戦していた14年間の中でも最悪の1年であったが、技術陣は逆境の中で問題点を探り、モチベーションを高め、パートナーチームとの絆を保ち続けるための方法を学び取っていった。