伝統を貫き通し、保守的な世界である | |||
当時:サービス・マネージャー ピーター・ジェリンスキー |
約60人のスタッフを揃えて、レースの現場におけるタイヤフィッティングなどのサービスを統括してきたピーター・ジェリンスキーとブリヂストンとの関係は、1980年代のヨーロッパF2時代から続いている。
ブリヂストンのモータースポーツ活動を最前線で支えてきたジェリンスキーから、F1という世界の持つ独特の慣習、そしてブリヂストンがその世界にもたらした変化について聞いていく。
外から見ると、F1界は常に新しいことにチャレンジしているように見えるかも知れませんが、実際は正反対です。グッドイヤーからブリヂストンにスイッチするのも、リスクだと思っていたに違いありません。『我々は力があるから、いっしょに勝利を勝ち取ろう』と言っても、トップチームはまるで動きませんでした。
一方、ミシュランが参戦したときは一部のトップチームが彼らのタイヤを採用しました。それは、彼らがかつてF1に参戦していた時代があり、チームからの信頼を得続けていたからなのでしょう。
ブリヂストンタイヤへの変更を決めたアロウズのトム・ウォーキンショーは、そう言う意味でのリスクを取ったといえるかもしれませんね。他にブリヂストン勢に加わってくれたのは失うものの少ないチームでした。でも、1997年のハンガリーGPでデイモン・ヒル選手が優勝目前まで行ったとき、人々の見方が明確に変わったのです。
私にとってのことの始まりは1996年、安川、浜島とロンドンのホテルで面会したときでした。ふたりから「F1へのゴーサインが出た」と聞かされたのです。私は安川がずっとF1をやりたがっていたのを知っていたので、「それはよかった。おめでとう」と言うと、安川からの返答は「『おめでとう』じゃないよ。君も一緒にやるんだ」でした。驚いたというか、ちょっとした衝撃でしたね。まさか、F1プログラムに放り込まれることになろうとは!
幸運なことに、ブリヂストンは鈴鹿で旧型のティレルで何年もテストをしてきていたので、技術センターでつくられたタイヤはかなりの競争力を持っていました。
とはいえ、F1は厳しい世界でした。当時、F1には名門チームを擁するグッドイヤーがいましたから、彼らに勝てるタイヤをつくるのは並大抵のことではありませんでしたね。
そのグッドイヤーとも、サーキットを離れると同じF1を戦うものとして友好的な関係を築いていけました。その頃、ブリヂストンはイギリスのベースをバーミンガムにあるブリヂストンUKに置いていましたが、グッドイヤーもそこからそう遠くないウォルバーハンプトンにヨーロッパベースを持っていたのです。
彼らのオペレーションは、非常に学ぶところが多く、彼らのところに出かけてタイヤフィッティングマシンを見せてもらって同じものを揃えましたし、テストなどでどちらかの機材が壊れたときにはお互いに貸し借りをしてその場を凌ぐこともありました。素晴らしい関係を築いていただけに、彼らが撤退を決めたときは残念でした。
2001年から参戦してきたミシュランは、ブリヂストンにとって「永遠のライバル」とも言える存在。彼らの凄いところは、F1に復帰するなりすぐにトップチームのいくつかが彼らの側についたこと。それだけ、以前F1に参戦していたときに得た信頼が大きかったのでしょう。これは我々も見習わなければならないと思いましたね。
グッドイヤーに続いてミシュランも2006年いっぱいで撤退し、2007年からは再び我々のワンメイクに戻りましたが、このタイミングでFIAはある変革に着手しました。「タイヤに関して公平を期すために、タイヤの割り当てなどを厳密に管理するコントロールシステムを導入したい」と言ってきたのです。
それを聞いたとき、私たちの培ってきたものを活かすことができる、と思いました。
我々は長くモータースポーツ活動を続けてきており、さまざまな経験を積んできていましたから、どんな場面でどんなシステムをつくればいいかわかっているのです。我々はそれまで使用していたシステムをFIAに提供し、活用してもらうことにしました。その結果、コストの削減や環境負荷の軽減はもちろん、従来以上にエキサイティングなレースを演出できるようにもなりました。
最初にお話ししたように、F1は非常に保守的なコミュニティであり、変化やリスクを歓迎しません。その点、ブリヂストンは常に革新的であることをめざしてきていますから、時代に合わせて変化を迫られているF1に対して、貢献をすることができたのではないかと思っています。