海外テストでステアリングを握ってくれたドライバーの一人、ヨス・フェルスタッペン(右)と情報交換する浜島裕英テクニカルディレクター。現場の技術面は彼を中心として多くの若きエンジニアの英知が結集された。

たのである。インディカーのレース活動の成果は、北米を中心としたプロモーション活動に大いに貢献した。ファイアストンの技術力の高さ、製品の優秀性を強力にアピールすることができた。
 アメリカ市場での成功に続き、グローバル企業を目指したときの次なる課題はヨーロッパでの知名度向上だった。
 このインディカーレースでの成功、グローバル化におけるヨーロッパ対策、そしてモータースポーツ推進室からのF1参戦の提案がうまくかみ合い1995年の夏、海崎洋一郎社長から「F1参戦を検討せよ」という指示がなされた。
 待ちに待ったF1への参戦実現へ一歩近づいたが、開発の現場ではインディカーはうまくいったが、F1は一筋縄ではいかないという不安もあった。また技術だけでなく、ソフト面においても参戦にあたってクリアしなくてはならないハードルもたくさんあった。ハード、ソフトの両面で検討を開始し、参戦までの計画が立てられ、1996年2月にその2年後、1998年からの参戦について正式発表を行った。

 F1主催団体との交渉、チームとの契約、サービス部隊の編成などを担当するのは東京本社内のモータースポーツ推進室、タイヤ開発は小平技術センター内のモータースポーツタイヤ開発部である。初めは2チームくらいへのタイヤ供給からスタートして5年目に頂点を極めれば、という青写真を作った。1、2年目は勉強。 F1というモータースポーツの最高峰で環境に慣れていきながら新たな技術を蓄積。3年目で表彰台の一角を占める実力を示す。そして5年目には頂点=チャンピオン獲得というものだった。
 交渉を行うチームも中堅までのチームが良いのでは、という意見がまとまった。それは今までの経験から、すぐにトップチームとは組まず、STEP BY STEPでいくことが最終的に良い結果が生まれると考えていたからである。またF1に参戦しているチームも、思った以上に保守的でそれまでの安定した環境をあえて崩そうとはしなかった。
 その状況下でもテストのパートナーとして胸襟を開いてくれたのがイギリスのトム・ウォー

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