BRIDGESTONE MOTORSPORT 1999-2003
FORMULA ONE IRL INDYCAR / CART MOTO GP
FORMULA NIPPON JGTC F3 / NATIONAL FORMULA KART GYMKHANA DIRT TRIAL / RALLY
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■モトGP


HRC(ホンダ・レーシング・コーポレーション)の協力を得て、WGP用タイヤの開発テストが全世界のサーキットで行われた。ライダーは、青木宣篤選手。
1980年代に2輪レースへの
タイヤ供給を開始


 ブリヂストンは、2輪レースへのタイヤ供給を1980年代にはじめている。まず、全日本選手権の250cc、500ccクラスに供給開始。1980年代の後半になると250ccクラスでは首位を争うサプライヤーとなり、1989年には岡田忠之選手で初のシリーズチャンピオンを獲得するに至る。また、1987年の世界選手権(WGP)鈴鹿グランプリでは、ホンダのワークスライダー小林 大選手が250ccにワイルドカードで出場を果たして見事優勝するという活躍を見せている。これがブリヂストンにとって2輪世界選手権レースでの初表彰台となった。
 そして1991年、舞台は再び鈴鹿。WGPの初戦で125ccクラスに上田 昇選手がワイルドカードで出場、優勝を果たしたのだった。この活躍が評価され、上田選手はWGPにフルシーズン参戦することになる。ブリヂストンとしても急きょWGPを転戦することとなった。「Racing Battlax」が世界のサーキットへと旅立ったのだ。
1997年、WGPの125ccクラスにブリヂストンタイヤとともに挑んだ東選手。そこでの優勝経験がMotoGPタイヤの開発に活かされたのだ。
 1992年には全日本選手権のトップカテゴリーGP500ccクラスに再びチャレンジするが特筆すべき成績は残せなかった。一方、WGPの125ccクラスには現在まで継続して参戦を続け、20勝以上の優勝を記録しており、タイヤのパフォーマンスの高さを証明している。
 WGPをフルシーズン闘い、あらためて感じたのは海外におけるWGPのステイタスと人気の高さだった。現場でタイヤサポートをしているスタッフ達は、125ccクラスで好成績を残せば残すほど、トップの500ccクラス(現在のMotoGPクラス)で闘ってみたいという気持ちを募らせていった。しかし、125ccから250ccへのステップアップでさえ検討すべき技術的課題は多大であり、頂点の500ccへのステップアップはそれ以上の技術進化が必要である。それを承知しながらも、頂点へのハードルが高ければ高いほどトップカテゴリーで戦い、チャンピオンを取りたいという夢は膨らむ一方だった。

125ccクラスから
WGPの頂点、500ccクラスに挑む


伊藤選手と青木選手の2人のライダーにより、ブリヂストンのMotoGPタイヤは開発された。
 1996年にブリヂストンとともに全日本125ccクラスのタイトルを獲得したホンダのライダー東 雅雄選手が1997年からWGPの125ccクラスに出場することになった。それにともない、「ぜひ、ブリヂストンとともに闘いたい」というオファーがあった。そしてブリヂストンタイヤを装着しWGPに臨んだ東選手は、2年目の終盤、オーストラリアGP(フィリップアイランド)で初優勝。1999年には開幕戦のマレーシアGP、日本GP、スペインGPと連続して制し開幕3連勝を果たした。この年、日本GPで勝った翌日、東選手とともに、本社で海崎洋一郎社長(当時)に優勝報告を行った担当者の山田 宏は、海崎社長から「やはり横綱でなくては・・・。幕内で勝ってもな」というコメントをもらった。それは、決して否定的なものでなく、社長も同席した副社長もWGPの頂点への挑戦を望んでいたのだ。そして、2000年のスペインGPを視察した鈴木啓介専務(当時、2003年時副社長)がサーキットに詰めかけた約15万人の観客の熱狂ぶりに感動し、その様子を社長への出張報告に記した。鈴木専務は、「500ccをやるのにはどうすれば良いか」と担当の山田に尋ねてきた。これはすなわち、〈GP500クラスを戦うための準備をせよ〉という暗黙の指示だったのだ。
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