新型コロナウィルスの影響でレースが延期や中止になる中、今年に向けて入念な準備をしていたブリヂストン装着選手や関係者の皆さんは、この時期をどう過ごしていらっしゃるでしょうか?何かと制約が多い環境下ですが、制約の中でベストパフォーマンスを発揮するのがジムカーナですから、そのレースで鍛えられたみなさんは、きっとこの状況にも上手に対応されていることでしょう。その辺りの近況をお聞きしながら、普段考えていること、今までの取り組んできたこと、プライベートのこと、こんな時でなければ聞けないことを聞き出していくリレーインタビューを企画しました。
インタビューはブリヂストンのWEB会議システムを使って実施していきます。第1回は全日本ジムカーナ選手権において、前人未到の100勝を達成した山野哲也選手にお話を伺います。また今回の聞き手は長年、タイヤサービスを提供してくださっているフォルテシシモの山内さんに務めていただきます。
山内さん(以下、山内):山野選手、今日はお時間をいただきありがとうございます。よろしくお願いします。
山野哲也選手(以下、山野):はい、よろしくお願いします。
山内:さて、早速お話を伺っていきます。まずはコロナの影響で外出自粛やレースの延期・中止が続いていますが、この期間に体力を維持するために何をやっていらっしゃるか、どう過ごしていらっしゃるかといった近況から教えていただけますか?
山野:そうですね、体力維持という意味では私の生活スタイルとして毎日やっていることがあって、別に自粛中かどうかに関わらず、今までやっていることをそのまま続けることで体力を維持していますね。具体的には、毎朝、起きると必ず腹筋をやります。それから腕立てふせをやって朝が始まるという感じです。
山内:ほう、それは何回くらいやるのですか?
山野:回数を決めず、出来なくなる限界までやります。回数を決めてやるのもひとつのやり方だと思うんですけど、その日のコンディションによって、その回数が、ものすごく苦しかったり、ものすごく楽だったり感じ方が違うんですね。おそらく楽な時はあまり筋力が増強されない、逆に苦しい時は体を壊してしまいかねない調子がよくないという体からのサインだと考えます。そう意味で回数に縛られ過ぎずに毎回自分の限界値までをやるようにしていますね。回数でどのくらいかというと、腹筋だとだいたい100回くらい。腕立て伏せはやり方にもよるのですが、顎を床にまでつける一番負荷の高いやり方だと30回くらいできつくなりますけど、一般的なやり方だと100回くらいですかね?その日の状態によってやり方を変えたりもしています。なにか変化をつけた方が楽しいんですよ。
山内:なるほど、そうですよね。
山野:あとはマスクをして、ランニングとかもしています。
山内:本当ですか?マスクして走ると苦しくないですか?
山野:苦しいです。もう、びっくりするくらい苦しいんですよ。でも、その苦しさも、ある一定のところを超えると楽になるんです。そういうところを探して走っていると楽しかったりします。
ランニング中の山野選手
山内:では本題のジムカーナのことについてお聞きしたいんですが、山野さんはアメリカで16歳の時に免許を取得されて車に乗っていたとFacebookで拝見したんですが、ジムカーナそのものをはじめたのは、いつなんでしょう?
山野:ジムカーナをはじめたのは21歳くらい、大学3年生の頃ですね。
山内:そのきっかけというのは?
山野:私、実家が東京の府中市なんですけど、ある日、近所を自転車で走っていたら“キャー――”というスキール音が聞こえてきたんですね。それで、なんだなんだ?と思いつつ見に行くと、東京競馬場の駐車場でジムカーナをやっていたんですよ。それが本当にカッコよくて、こんなラジコンみたいな動きが実車で、できるんだってところに一発でシビれたんです。それで自分でもちょっとやってみたいと思ったのがジムカーナとの出会いです。もう一つ、きっかけになる出来事があって、実はジムカーナをやる前に、安全運転技術コンテストという大会に出場したんですね。このコンテストは4種目の合計ポイントで争う競技で、どういう種目があるかというと、例えばボンネットに水をたくさんいれたバケツをのせて、いかに水をこぼさずにA地点からB地点に行くか?とか、全部バックで走るコースの途中に一本の板が置いてあって、そこに片側のタイヤをのせて走らないといけない、といった運転の技術を競うコンテストだったんですけど、それに出たら優勝しちゃったんですよ。それで、そのコンテストの1種目が、すごく狭い自動車教習所のクランクとかを使ったジムカーナのような競技だったんですが、私、その種目もすごく速かったんですね。その大会というのが、関東の大学の自動車部を中心に参加者を集めていて、私は当時バレーボール部に所属していたんですが、そのコンテストで優勝してしまったので自動車部に誘われ、そこからジムカーナをやり始めた感じでした。
山内:今、JAFが普及活動を進めているオートテストに近い感じの競技ですかね?
山野:あっ、近いですね。
山内:それでジムカーナに目覚めたんですね?
ジムカーナデビュー戦の写真
(アルトワークスで参戦するも横転リタイア)
山野:目覚めちゃいましたね~。このコンテストで、クルマの運転って面白いなと改めて思ったんです。実は、もっと、さかのぼると小6の時におもちゃのラジコンを買って、それでスピンターンができたんですけど、そのクルンクルン回れるのが面白くて、夢中になったことがあったんです。原点はむしろそっちかもしれませんね。
山内:そのラジコンの動きを実車ではじめちゃったわけですね。なるほど。
日本学生ジムカーナ選手権
AE86で優勝した際の写真
山内:それでは、いよいよ全日本へ出場してからのお話を伺っていこうと思います。全日本ジムカーナは1991年までは1年に1回だけの大会、シリーズ戦ではなかったんですけれど、1992年に全国を転戦するシリーズ戦でのジムカーナがはじまりまして、開幕初戦は雨のオートポリスでした。覚えてますか?
山野:覚えてますよ~。超楽しかったですねぇ。何が楽しいって、オートポリスは本物のサーキットじゃないですか?実は、当時、私はサーキットを走ったことなかったんで、本格的なサーキットで走る体験そのものが初めてだったんですね。しかもコースが長くて、確かオートポリスのメインストレートを最終コーナーに向かって逆走するレイアウトだったと思うんですが、ものすごいハイスピードで、なおかつ大雨が降ってたんですね。
山内:霧も出てましたよね?
山野:そうですね。霧で真っ白な中で走っていた記憶がありますね。それが、もう楽しくて楽しくて、最高の1日だった記憶があります。
山内:しかも優勝で飾られています。
山野:はい。確か2秒くらい2位をちぎってたと思いますね。
山内:素晴らしい。圧勝ですね。
山野:全日本ジムカーナ選手権がシリーズとして始まった、その開幕戦。記念すべき第1戦をぶっちぎりで優勝できたというのは、私の中でもセンセーショナルな出来事でした。そして、周囲からも注目され、こういう世界があるんだな、というのを身をもって体感した出来事でした。それが全日本初優勝でしたね。
山内:その時に履いていたタイヤが何だったか覚えてます?
山野:もちろん覚えてますよ!RE・・・えーっと(笑)なんだっけな・・・RE-610Sだったかな?
うん610Sだったな。
山内:610Sの前に61Sとか71Sもありましたけど、そちらではなかったんですね?
山野:もう610Sになってたと思いますよ。その翌年の1993年がレギュレーションの規定で510Sだったはずなんですよ。それを覚えているので92年は610Sだったと思います。
山内:なるほど、そうでしたか。その610Sというのがものすごくスリックライクなタイヤでしたね?
山野:いいタイヤでしたね~。
山内:画像を調べて用意したんですけど、こちらです。
山野:(共有された画像を見ながら)うわ、懐かしい!いいパタンですね。今見ると71Rに結構似てますね。
山内:そうですね、似ていますね。では、このままタイヤのパタンで、全日本ジムカーナの歴史を一緒に振り返っていきたいと思います。次に、うってかわって、これが今お話に出た、翌年に使われた510Sのパタンなんですが、こうしてみると510Sは排水性重視、溝がメインという感じのパタンでしたよね。
山野:いや~参りましたね・・・。まあレギュレーションで溝面積を増やすという規定になってしまい、仕方がなかったんですが。1993年は他社が強く、ブリヂストンは苦しい年でしたね。
山内:93年は、山野さんがシビックに乗り換えた年でもありましたよね?EG6でしたね?
山野:はい。92年はCR-Xでチャンピオンを獲ったんですが、翌93年はEG6のシビックに変更した年でしたね。あのクルマじゃ絶対に勝てないよ、とみんなに言われる中で投入したんですけれど、それはCR-Xの未来が無かったからなんです。今後はシビックで戦っていくしかない。ならば、そのクルマをいち早く投入することで、誰よりも先に苦労するかもしれないけれど、その代わりに誰よりも先にクルマを煮詰めることができる。その一番早く煮詰めた人が将来のチャンピオンになると考えたですね。
山内:なるほど。確かに93年は苦戦した年でしたね?
山野:苦戦しましたねぇ・・・確か第1戦は11位とかだったんじゃないかな?
山内:いいえ、JAFの公式結果を見ると第1戦は9位でした。初戦から順に9位、13位、7位、3位…ときて、第6戦で優勝してますね。
山野:そうでしたね、確かシリーズも前半戦は十数位まで一回落ちてるんですよね。確か私の記憶だと、8月か9月くらいの名阪で優勝したんですよね?
山内:そうですね8月の名阪で優勝してます。
1993年全日本ジムカーナ
第6戦名阪で優勝した際の写真
山野:確かに、その年は非常に苦労したんですが、私にとっては、ある意味そのあと自分が成長するために、ものすごく役立った年でした。なぜかと言うと、レギュレーション変更の影響で、タイヤが非常に厳しい年だったからなんですよね。厳しい年って色々努力するんです。それはクルマのセッティングに対してもそうだし、ドライビングの仕方に対してもそうだし、あとはタイヤを環境にあわせるセッティング、タイヤ自体のデータを取ってセッティングをするという事も細かくやって非常に勉強になったんですね。例えばタイヤにつけるホイールをフロントは何Jにして、リアは何Jで、オフセットをいくつにしてという細かい工夫をCR-X時代はやったことがなかったんですが、それをシビックになってからものすごい数のテストをしてデータを取ったんです。当然空気圧もたくさんテストしましたし、タイヤサイズもサイズをいくつか振ってテストしたんですね。たしか、EG6で履けるタイヤサイズが195/55R15と195/60R14だったんですが、試すまでは195/55R15の方が当然速いと思っていたんです。ところが実は195/60R14の方が速いことに半年後に気づいたんですよね。それで名阪で優勝できたんですね。
山内:なるほどね~。
山野:93年は、そんな試行錯誤の苦しい年でしたが、翌年94年になるとシビックも煮詰まってきてですねぇ。
山内:はい、確かに次の年は開幕戦から優勝してますね(笑)
常勝し始めたシビック(EG6)
1994年山野選手マシン
山野:その年になると15インチのタイヤも速くなったんですよね。これ、必ず時代は繰り返すんですけど今、私が乗っている124スパイダーのタイヤサイズも、同じだったじゃないですか?
山内:はいはい。
山野:最初は小さい径のタイヤの方が速くて、途中で大きい径に変えていくという経緯をたどるんです。124スパイダーも、はじめは16インチの方が速い時期があって、コースによっては17インチの方が速いぞって時がでてきて、だんだん17インチの方が速くなってくる。これは必ず繰り返しますね。クルマのセッティングが煮詰まってくると大きいタイヤが速くなってくる、すごく面白い現象ですね。
< 編集部 >
いかがでしたか?全日本ジムカーナ選手権の黎明期を知るお二人の話は尽きず、開幕2年目までの内容で、かなりのボリュームとなってしまいました。一旦ここまでを前編として区切り、いち早くみなさんにお届けしたいと思います。後編もお楽しみに。