さて、前編(/4/jgymkhana/racenews/2005/200513160345)で二人の全日本ジムカーナ談義は92年の第1回大会の開幕から、翌93年、山野選手がクルマをシビックに乗り換えて試行錯誤するところまで進みました。今回は、その続きから後編をお届けします。
山内:この93年は既にブリヂストンの契約ドライバーだったんですよね?
山野:92年から契約ドライバーです。実は私、なんと91年にブリヂストンにタイヤについてモノを申しに行ってるんですね。それは先ほど山内さんがおっしゃった通り、91年までは年1回の全日本ジムカーナ選手権だったんですけれど、開催時期として、ちょうど今のJAFカップと同じ頃の寒い時期だったんです。ところが、当時のブリヂストンのタイヤは寒いと全然グリップしなかったんです。それでも3位とか2位には入っていたんですけれど、当時の他社を履くライバルたちがものすごく柔らかいタイヤを使っていたんですよ。そんな中で「勝ってくれ」と言われても勝てないので、勝たせようと思うならブリヂストンも本気でやってくれと言いに行ったんです。レースに取り組む温度差を無くしたかったんですね。一緒に戦ってほしいと。今から考えると文句を言いに行ったように取られかねない訴えでしたけど、それは、もう、必死でした。
山内:それが91年だったんですね
山野:91年のJAFカップ、当時の全日本選手権の直後に言いに行きましたね。
山内:その全日本は確か2位でしたね?
山野:そうです、そうです。当時ブリヂストンは全日本選手権に関して言えばタイヤの温度レンジが、まったく合っていないという状況でした。まあ森田さん(注:森田名人と呼ばれた、当時の名選手)が勝つときもあったかもしれないけど、基本ブリヂストン勢は劣勢でしたね。当時11月開催の全日本選手権は手も足も出なかったんです。でもタイトルとしての“全日本チャンピオン”というのはその日しか獲れないんですよね。
山内:そうでしたよね。
山野:ええ、全日本が開催されるまでは、それこそチャンピオンがいくらでも獲れそうな雰囲気で、夏の大会では勝ちまくっていたのに、11月の全日本だけはボロ負けする結果が見えてしまっていた。私もやるからには全日本のタイトルを欲しいし、ブリヂストンもタイトルが欲しいなら一緒に戦ってほしいという話をしに行きました。当時25歳だったのですが、25歳で本社の開発契約になれるのは、かなりレアなケースだとブリヂストンの人にも言われましたね。そんなに若い人と契約したことが無いとすら言われました。そんな若造がモノ申してたんですね。
山内:なるほど、そうだったんですね。では話を全日本の続きに戻しますと、その後に520Sが出ましたが、あれは何年くらいでしたっけね?
山野:510Sは確か1年しか使っていないので、520 Sは94年くらいだったかな?
山内:当時、けっこう良いタイヤでしたよね?
山野:それは、いいタイヤでしたね。やっぱり510Sが急なレギュレーション変更に対応したタイヤだった。そこからするとちゃんとレギュレーションに合わせて作った520Sは剛性感も、しっかりと出てオンザレールで走れる感じでしたね。
山内:さらに540Sが、そのあと出ました。このタイヤは最強だったんじゃないですか?
山野:これは最強でしたね。もうパタンもユニークだったし、520Sより更に剛性感が出て“がしっ”とっとしたタイヤでしたね。淀みが無いと言うのか、全ての操作に対して時差なくグリップを発揮してくれたタイヤでした。
山内:そして、その後55Sが発売されました。
山野:突然、数字が2桁になりましたが、ブリヂストンってたまにこういう思い切った変更をやるんですね。55Sも結果的には面剛性が良かったです。全体的にはラウンド形状になっているタイヤだったんですけども、パタンがすごく良くて、ブロックヨレしないパタンでしたね。
山内:そうですね、ストレートグルーブが無かったですよね。
山野:そうです、そうです。そういう面から、すごく面剛性が良くてトレッド面の剛性が高いタイヤでした。それによって路面をいつもつかんでいる印象を与えてくれるタイヤでした。滑った時も滑ったあとのグリップの回復がスムーズで早かった。すごく良いタイヤでした。いくら攻めても大丈夫だとタイヤが教えてくれる、そういう安心感のあるタイヤでした。
山内:ジムカーナのシェア的にも一番高かった時期でした。大人気のタイヤでしたね。シェアで言うと概ね50%くらいのシェアを占めていましたね。
山野:ブリヂストンが一番強かった時代は、表彰台6人全員がブリヂストンキャップということも、よくありましたね。
山内:ありましたねぇ。そして、その次の11Sに変わったのが2009年で、この11Sはそのまま現在も使われているんですけど、山野選手は2012年にはもう11Sを履かないクラスに移られたんでしたよね?2012年はBRZでPNクラスに参戦され、その時はSタイヤではなく一般ラジアルのRE-11を履かれた訳ですが、このタイヤはいかがでしたか?
山野:その前に、この時期の大事な話を1つだけ、RE-55SからRE-11Sに切り替わった時のことを話しておきたいです。2009年の浅間台(注:8月開催の第6戦)がRE-11Sのデビュー戦で、このレースで私は勝ったんですね。かなりの確率で私はPOTENZAのデビュー戦は勝っているんですが、それよりもここで言っておきたいのは、その前のレース、55Sの引退レースとなったイオックスでも勝っていることなんです。ブリヂストンが新しいタイヤを投入する直前というのは、ライバルメーカーが新商品を出してきて、タイヤの戦闘力という意味ではブリヂストンは劣勢です。その劣勢を跳ね返して自分が開発した55Sの引退レースを飾れたというのが、本当にうれしかったんです。期せずして、今日のインタビューがジムカーナ用POTENZAの歴史を振り返る流れになったので、これだけは是非、言わせてください。
山内:確かに、そんなことがありましたね。少し急ぎすぎまして、失礼しました。それではRE-11のお話を伺ってもいいですか?
山野:そうですね、これもRE-11の前にRE-11Sの話になってしまうんですが、この開発が大変で、山内さんも一緒に苦労した記憶があると思うんですが、11Sは開発中からとても苦労しました。特に当時ブリヂストンがフォーミュラーカーのレース向けに開発した最新技術を、ジムカーナ用のタイヤにも取り込もうということで、非常に難しいチャレンジをしましたね。
山内:そうでしたね。その時の苦労の結果が、今も使われているRE-11Sというタイヤのポテンシャルの高さにつながるんだと思いますが、山野選手としてはPNクラスに移られ、タイヤは2013年以降はRE-11Aで戦うという流れでしたよね?
POTENZA RE-11A
山野: そうです。でも、その時期というのが、実は非常に難しいやり取りをブリヂストンとしていた時期なんです。ジムカーナという、それこそ、モータースポーツ初心者向けの入門カテゴリでもある“すそ野の広い競技”で使うタイヤとしてみると、RE-11やRE-11Sはタイヤとしての実力を引き出すのが難しい面も目立っていて、これを何とかバランスのよい方向に修正したら、より多くの人にPOTENZAを楽しんでもらえるのでは?という提案をブリヂストンに対して訴え続けていた時期なんですよね。現行のタイヤに問題がある訳ではない、でも、まだ世の中にない、その一段上のタイヤを一緒に作りたいという話を理解してもらうには、やっぱり時間が掛かりました。しかし、その甲斐あってRE-71Rには企画段階から関わらせてもらえることになったんですよね。
山内:さて、2015年に、その71Rが出ました。
山野: いや~、もう嬉しかったですね。完全に気分はRE-71Rの父親という感じでしたね。もう、父親以外の何ものでもない気持ち。生まれる前の段階から全てを見届けたタイヤが71Rだったな~。やはり開発期間としても長かったんですよ。山野哲也が25歳からブリヂストンのタイヤ開発を初めて、一番長い開発期間を掛けたタイヤで、そういう意味では間違いなく良いタイヤが出来ますよね。あのパタン、構造にたどり着くまで、基礎開発みたいなことを71Rはたくさんやっているんです。山内さんとも一緒にやりましたけど、ブリヂストンのテストコースで本当にたくさんのテストをしましたね。基本的な部分を固めるのにも1年くらいかかったんじゃないかな?
山内:えぇ、最初は、随分とシンプルなパタン同士の比較、基礎の基礎みたいなことの確認から始めましたよね?
山野:その通りです。いや~、もう最高に良いテストでしたよね。やっぱり基礎開発ってそれだけ大事なんですよね。開発期間が少ないとやれることが少ないから、少ない中で「Aにするか?Bにするか?」みたいな、限られた範囲での選択をして終わってしまう。でも、71Rは開発期間もじっくりかけて、基礎的なことから相当テストできた点が本当に良かったです。私は私でタイヤを作りこんでいくノウハウというか、今でいうバックデータが自分の中に蓄積されたのがその時期です。よりタイヤについて語れるようになったのは、基礎開発をたくさんやったからだなと今でも思いますね。
山内:それだけ良いタイヤだったんですね。「71RはPNクラスでは無敵」と言われた2015年だったんですが、それまで他社メーカーを履いていた人も、しがらみのない人はこぞって71Rを履いていましたね。
2015年第7戦 恋の浦
RE-71Rを装着して優勝(スバル BRZ)
山野:そうでしたね。本当にまじめに作ると良いタイヤが出来ると実感しました。この71Rを期にブリヂストンは生産の仕方まで変えたと聞いていて、またブリヂストンが進化したなと思った年でした。
山内:ところが、2016年にはなんと他社が新商品を発売して一気に形勢逆転されちゃったんですね。71Rの天下は1年しか続かなかった訳なんですが、翌2016年はとても苦しい1年だったんですけど、最終戦イオックスにRE-05D TYPE Aを投入したんですね。その雨のイオックスのPN3クラスでブリヂストンの装着選手が優勝したんですよね。
POTENZA RE-05D TAPE A
山野:そうでしたね。
山内:その翌年、2017年から山野選手はアバルト124スパイダーに乗り換えてPN2クラスでRE-05D TYPE Aを履いて、そこからは快進撃でしたね。
2017年に乗り換えたアバルト124スパイダー
山野:05Dはなんて言ったらいいかな?ゴム的に強いタイヤでしたね。本音を言うとパタンとしてはあまり私の好みではなかったんです。というのは、多くのブロックで構成されているタイヤだったのでひとつひとつが独立しちゃうんですね?よく私がパタンを説明するときに、タイヤ表面をカンナ掛けして1枚のシートを切り出した絵をイメージしてもらうんですが、タイヤにカンナがけするとライバルメーカーのタイヤはピースが少ないんですが、05Dはピースが70個以上に分かれちゃうんですよね。ピースの数だけ、ムービングが起きる確率が高くなってしまうので、そのピースへの対処が難しかったタイヤですね。ただ、そういう要素を、ゴムの強さでだいぶカバーしていた感じのタイヤでしたね。そのゴムも、ある一定の温度領域に合致していないと難しくなるゴムだったのでそこは苦労しました。そのかわりに夏場は断然、強くて、ある一定の温度を超えると本当に頼りになるタイヤでした。
2018年には前人未到の全日本ジムカーナ選手権100勝を達成!会場で仲間に祝福される山野選手
山内:そしてそのRE-05DからRE-12D TYPE Aになりました。これは05Dの強さを引き継いだまま進化したタイヤと捉えればいいでしょうか?
POTENZA RE-12D TAPE A
山野:RE-71Rを更に進化させたのがRE-12Dでそこから競技用に進化させてきたのがTYPE Aですね。これもまた幅の広いユーザーに受け入れられるタイヤだと思います。パタンは多少ブロックの数はありますけど、その間にいる溝が細いので運転しているときにちょっと楽なんですね。ベッタリ路面をつかむタイプのタイヤなので、ソリッドではないんです。ちょっと時差をもってから曲がって来る。その時差を体で感じ取りながら、計算しながら、分かった上で運転すると相当パフォーマンスが高いことを実感できるタイヤです。トータルパフォマーンスのレンジが広いタイヤと言ったらいいかも知れないですね。たとえば路面コンディションや気温、路面温度、Dry、Wet、ざくざく、つるつるといった路面サーフィスの多様性に対応できるタイヤという意味では、RE-12DTYPE Aが最強だと思います。
山内:確かにシェアで言っても、RE-05DではRE-71Rで大きく上げたPNクラスでのシェアを取り戻せなかったんですが、71Rほどではないにせよ12Dでは、だいぶシェアを盛り返してきたっていうのが去年1年間の状況でしたね。
RE-12D TYPE Aの発売でブリヂストン装着勢が躍動
山野:そうですね。良いタイヤはシェアが広がりますね。
山内:いいタイヤを出せば、みんな買ってくれるというのがありますよね。
山野:そうですね。スポーツタイヤでサーキットを走る人や競技に出る人にとって、タイヤってタイムなんですよね。タイムをお金で買うのと同じことなので、タイムが出るタイヤは買う、出ないタイヤは買わないという判断基準がシンプルですよね。だから私たちもタイムが出るタイヤを作らなければならない。すごくシンプルな世界です。
山内:さて、ここまでブリヂストンのジムカーナ競技用タイヤの歴史を急ぎ足で振り返ってみたんですが、なかなか興味深いお話を聞かせていただきまして、ありがとうございます。
山内:最後に自粛中の他の選手へのメッセージと、この記事をご覧になるファンの方へのメッセージをひと言ずつお願いできますか?
山野:まずは選手の皆さんへですが、この状況が長く続いて、走りたくてうずうずしている選手もたくさんいると思います。今年はこうやって、コンディションを整えるのに時間のコントロールが難しい状況下で開幕を迎えるんだと思いますが、この苦難を乗り越えた後に味わう“走る楽しさ”、“競技に没頭する楽しさ”というのは格別だと思います。今はすごく辛いかもしれないケド、また走った時に「ジムカーナって超楽しいな」って思える、その日を楽しみに今は頑張りましょう。
それからファンの方へですけど、モータースポーツはスピードへのチャレンジだと思うんですね。このスピードへのチャレンジというエキサイトメントを、ぜひまたサーキットで共有できる日が来ることを、一緒に待ち望みつつ、みんなで乗り越えて行きましょう。
山内:ありがとうございます。本日は、貴重なお話をありがとうございました。
山野:ありがとうございました。
※一部写真は山野選手よりご提供頂きました。
<編集部>インタビューはオンライン会議システムを使用して実施いたしました。 次回は山野選手があのドライバーにインタビューです。お楽しみに!