BRIDGESTONE MOTORSPORT 1999-2003
FORMULA ONE IRL INDYCAR / CART MOTO GP
FORMULA NIPPON JGTC F3 / NATIONAL FORMULA KART GYMKHANA DIRT TRIAL / RALLY
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使用されたタイヤはすべて、エンジニアが細かくチェックを行う。日々のデータの積み重ねがタイヤを進化させる。
ヨーロッパの前進基地MSUK。イギリスからヨーロッパ大陸の各サーキットまでタイヤは運ばれていく。
膨大な数のタイヤが細心の注意のもと管理されている。
 2000年の最終戦、日本グランプリのレース中に、ウイリアムズチームの代表、フランク・ウイリアムズ氏が「この2年間は、ブリヂストンと良い仕事をすることができた。ありがとう」とコメントした。ワンメイクタイヤサプライヤーとして、その翌年からミシュランのユーザーになるチームに対しても公平なサポートを行えたことを証明するコメントだった。
 ミシュランは、F1でどのようなパフォーマンスを示すのか。しかし、ブリヂストンサイドには、マクラーレンとフェラーリというF1の2大チームがある。その点でもすぐに彼らがブリヂストンに追いついて来るとは思えなかった。その予想通り、初戦のオーストラリアGPから第3戦のブラジルGPまでブリヂストンユーザーが上位を独占した。
 しかし、第4戦のサンマリノGPでライバルの後塵を拝する結果となってしまった。「もう勝たれてしまった」というのが率直な印象だった。だが、円熟期を迎えたフェラーリのミハエル・シューマッハ選手が2000年と同じ9勝をマークして連覇。ミシュラン勢のエースチーム、ウイリアムズが上位に食い込んで来るも、ドライバーズ、コンストラクターズの両タイトルを独占することができた。


2002年、かつて王座獲得をともにした
マクラーレンの移籍


2003年、ミシュランとのチャンピオン争いは、F1史上まれにみる激戦だった。
 2002年シーズン直前に衝撃が走った。F1参戦2年目以来、パートナーシップを組んで来たマクラーレンがライバルメーカーに移籍することとなったのだ。初ポール、初優勝、初チャンピオンをともに分かち合ったパートナーが離脱するというのは痛かった。そして、タイヤ開発テストを依託していた2チームの一角が離脱するために、開発のプログラムを大きく変更しなくてはならなかった。テストマイレージをどうやって稼ぐか。継続してフェラーリにすべてを依託し、予定していた70%程度のマイレージを稼ぐことはできた。しかし、単独チームによるタイヤ開発はどうしても情報量の不足を招き、それをどう補うかという課題が新たに出てきた。
 しかし、フェラーリの絶大な協力を得て、2002年シーズンは、ミハエル・シューマッハ選手が新記録となる年間11勝を獲得してチャンピオンとなり、チームメイトのルーベンス・バリチェロ選手が4勝。全17戦中15勝を果たしフェラーリが圧倒的な強さでコンストラクターズタイトルを獲得している。だが、反省点が全くなかったわけではなく、優勝できたレースでもタイヤの性能だけをとると負けていたレースがあったと開発陣は分析した。
 2002年の最終戦、鈴鹿の日本GPでブリヂストンにとって記念すべき100戦目、70勝を記録。連覇に華を添えた。
 
  1997年のドライ用リアタイヤ。
サイズ:315/45R13。
1997年まではスリックタイヤが使用されていた。
1998年のドライ用リアタイヤ。
サイズ:325/45R13。
スリックタイヤの全面禁止は劇的なレギュレーション変更だった。
1998年のドライ用フロントタイヤ。
サイズ:265/55R13。
3本溝のフロントタイヤは1年で姿を消した。
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