BRIDGESTONE MOTORSPORT 1999-2003
FORMULA ONE IRL INDYCAR / CART MOTO GP
FORMULA NIPPON JGTC F3 / NATIONAL FORMULA KART GYMKHANA DIRT TRIAL / RALLY
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ドイツのツーリングカーレースの最高峰、 DTMでAMGメルセデス・ベンツをサポート。数々の栄冠を手中に納めた。 1998年まで行われていた全日本ツーリングカー選手権も強力にサポートした。1990年、サーキットを駆け抜けるホンダ・シビック。
1998年、日産の日本人トリオ、星野一義、鈴木亜久里、影山正彦とともにル・マン24時間レースで3位表彰台を獲得した。 1995年、ファイアストンブランドがアメリカンモータースポーツの最高峰、インディへ21年ぶりにカムバックを果たした。
 モータースポーツ活動は、ブランドイメージをグローバルに確立すると同時に、自動車メーカーとの関係を築く点でも寄与している。ブリヂストンのレーシングタイヤの優秀性を認めたAMGメルセデス・ベンツ(当時)は、ドイツ・ツーリングカー選手権(DTM)のパートナーにブリヂストンを選んだ。世界最強のツーリングカーシリーズとして知られていたこの選手権でのタイヤ開発は、最初から順調とはいえなかった。しかし、参戦2年目の1992年に早くもチャンピオンを獲得。1994年から2年連続で王座を獲得している。この実績により、ブリヂストンタイヤがAMG社の信頼を獲得。同社の乗用車用純正装着タイヤに選定された。さらにF1に参戦してから、トップチームであるマクラーレン・メルセデスがブリヂストンを選択したのもこのときに築いた信頼関係が基盤になっている。ブリヂストンのヨーロッパでのモータースポーツ活動は、着実に成果を上げていったのだ。

アメリカンモータースポーツを支える

 一方アメリカでは、1988年にファイアストン社を買収したのちに、かつて同社が参戦していた伝統のアメリカンモータースポーツ、インディカーシリーズにファイアストンブランドで参戦を再開。1995年、インディカーレースにおいて21年ぶりのファイアストン復活を支援した。その後着実に勝利を重ね、現在2つのシリーズが行われているアメリカンモータースポーツの両トップカテゴリーに対してワンメイクタイヤを供給するに至っている。
 そのひとつ、チャンプカーシリーズがドイツやイギリスといったアメリカの外でもレースを行うようになったことに伴い、供給ブランドをファイアストンからブリヂストンに変更。グローバルなブランド戦略に基づき、ワンメイクタイヤを供給している。またもうひとつのIRLには、ファイアストンブランドを継続して供給している。

1996年、リジェ/無限のマシンを用いて行われた鈴鹿でのF1タイヤテスト。ドライバーは鈴木亜久里が務めた。
F1参戦、世界の頂点に立つ

 ブリヂストンは、ヨーロッパにおける知名度のさらなる拡大をめざし、F1が最適であるという判断に至った。ブリヂストンは、1976年および1977年に富士スピードウェイで行われたF1に当時バイアス構造のタイヤを供給。国内から参戦した星野一義選手、高原敬武選手をサポートした経験を持つ。76年のレースでは、ウェットコンディションの中、星野選手が一時3位まで躍進するという活躍を見せ、〈雨のブリヂストン〉として注目された。
 時は流れ1989年にエンジンサプライヤーの無限(当時、現M Tech)がF1参戦をめざしてエンジン開発を行うこととなり、タイヤ供給を打診された。このときブリヂストンは、グループCカーのタイヤ技術を応用したラジアルタイヤを製作しテストに参加した。6年間テストは続けられ、走行距離はトータルで2万キロに及んだ。ここで蓄積したF1用レーシングラジアルタイヤのデータは、のちにつながる貴重なものとなった。
 そしていよいよ1995年の夏に当時の海崎洋一郎社長から「F1参戦を検討せよ」という指示が出され、それがF1参戦へ向けてのGOサインとなった。1998年からの参戦を発表、そのスケジュールに従いタイヤ開発が進められた。予定よりも順調に開発が進み、なんと1年前倒しして1997年からの参戦が決定した。とうとう世界が注目する檜舞台にブリヂストンタイヤが登場することとなったのだ。
ワールドチャンピオンがはじめてブリヂストンタイヤを試すということで、ピットには緊張した空気が流れた。 デイモン・ヒル選手は、初のブリヂストンタイヤにかなりの手応えを感じていた。
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